見出し画像

短期的に忙しい日々:悩みも交えて

こんにちは。2階建てグリーン車がかっこよくて大好きです。よく被写体として選んでいます。

前期は短期的に忙しい

いまは大学2年の前期真っただ中です。今日はその中の土曜日で、そこそこに時間ができたのでnoteを開いています。今期の履修は、履修可能上限満タンであるため、課題などの処理が多くてとても忙しい学期になっています。録画配信の授業が多いため、出席点がない分理解をレポート等のオンライン課題でしめさなければならず、1種類の授業に割く必要のある時間が必然的に多くなります。

そんな感じで忙しいのですが、同時にまた結構時間や思考を割かなければならない課外活動も兼ねてやっているため、とても忙しい毎日をひたすら生きているという気分です。

心を休める時間が欲しい

ただひたすらに自分に襲い掛かってくる「やることリスト」。これを減らすことにせかせか走り続ける毎日を送っていると、疲れます。一つタスクを消せばまた一つとタスクが追加されるため、やることリストが0になる時間が少ない。つまり常にやることリストが存在しているような状態で生活をしているというわけですが、それがために心が休まることが無いのです。

自分の器の小ささを知る

個人的にこうしたような生活を送ってみて、自分が頭に抱えられるやることリストの行数は多くないなと実感しています。要は、自分の心の包容力が大きくないのだと気づいているということです。

中長期的なビジョンを落ち着いて思い描いてもいられない

また、タスクが常に頭に座り込んでいる状況であれば、自分にしっかりと向き合う時間を確保することが難しくなります。自分はどういう存在となりたいのか、まだ私は明確に決まっていないため、自分の位置を確認しながら生活の方針を落ち着いて検討する時間があるべきなのですが、実際にはできていないという現状がある。それは、他ならず履修パンパンの学業やタスクのおもい課外活動のため仕方なく起こることだというわけです。これは甘えというか言い訳的な側面もあります(笑)。

時間が流れるのは早い

そんな感じで、時間が過ぎるのが速く感じてしまう。目の前のことで一生懸命であるためです。こんな感じで3か月半の学期は、捉え方によっては一瞬で過ぎてしまうのだろうなと思っています。捉え方によってと書きましたが、こうしたぎゅうぎゅう詰めの日常の中にも、「一瞬」とは捉えられないような意味のある事柄がちりばめられているということを確認しておきたかったのです。

暇すぎることに比べればまぁ充実感はある??

そこそこに忙しいことの負の側面ばかり書きなぐってしまいました。疲れているのでしょうか。

もちろん忙しいことに充実感という意味で良い側面を見出すこともできます。自分のスケジュールが決まっていて、何をしようか迷う心配がない。ある種の思考停止ができる。この思考停止を、先では「将来を考える重要な時間の放棄」と捉えましたが、将来を考えるということは絶対解がない問を考えることを意味し、それなりの苦痛が生じるものです。それを回避するという意味で、学業や課外活動で忙しいことは、とても良いことだということもできるでしょう。

当初、忙しい4月からの学期と3月までの暇すぎた春休みの生活を対比させるつもりでしたが、時間の関係で3月までの春休みの生活は別の記事でまとめようと思います。最後に、またネガ的な話になるのですが、悩み的なものを共有しておきたいと思います。

クッションとしての心の余裕

先ほど、私は心のキャパが大きくないと述べました。そんな私がいろいろなタスクに溺れる生活を送ると、残りの心の余裕がとても少なくなる。その結果、些細な事で落ち込みやすくなるという問題と、人に対する気配りの低下という問題が生じてくると感じます。順に共有していきます。

心的レジリエンス(危機再起能力、しなやかさ)

まず、些細なことで落ち込みやすくなります。すでに頭(心)の中で「やることリスト」を抱えてしまっている分、あわただしい日常の中で起こる様々な出来事に対して、心的なレジリエンスが低い状態になってしまうのです。ちょっとしたSNSの書き込みやコンテンツ、ちょっとした自分のスケジュールミスなどさまざまな出来事から来るモヤモヤを、意図してかき消したりスルーしたりすることが難しくなる。暇であるときに比べ、目の前にやるべきタスクを消費することにより、思考停止で解決できるという利点はあると思います。暇であれば、そのことばかり考えてしまう危険もあるわけです。ただ、目の前のタスクを消費するモチベを破壊するようなストレスを抱えた場合、タスクを消費することによる解決ができなくなってしまう。そして、タスクを消費できなかったという事実に対する責めが重なり合うという悪循環にある、このようなリスクが、「短期的に忙しいとき」にはあります。私自身、中規模で週1か週2でこうなりかけるときがありますが、その場合は時間がたつことに解決をゆだねます。具体的に言えば、寝る! 寝れば、いったんその悩んでいる時間から離れることができる。私の場合、タスクを消費できるできないについては、心の余裕を以前よりは持つことができるようになったため、寝るという手段はかなり有効です。だいたい昼寝をした日の昼寝後の時間は悩みにさいなまれないことが多いです(笑)

やばいのは、寝ることができないほどストレスが大きい場合です。こうなると、いったん非常に心的にしんどい時間を、起きている状態で経験しなければならなくなる。そうなったときに、自分で主体的に心の状態をよい方向にもっていけるようなアクションを取れるよう、訓練しておきたいと思います。

他人に対する気配り

色々忙しい中でも心の余裕を作り出すべく、あえてタスクを消費しない時間を作るようにしています。これはある種ひろゆきさんがおっしゃったことを参考にしたものです。具体的にともだちを会話や電話に誘うということをしているのですが、いざ話すときに友達に対して十分に気配りのある、友達にとって楽しい会話をできているか考えると自信が無かったりします。頭の集中力の一部分がタスクのことに持っていかれており、相手が話している内容を明快に理解できなかったりするのです。また、自分が相手を誘ったに値するほど、自分の言葉を丁寧で気配りのあるものにできているか、疑いの目線を自分自身に投げかけたりしています。

あれ、大学生活って自由だよね?

そうまでして、自分の生活に楽しみをもたらしてくれる友達との会話に集中できなくなってまで、忙しく「充実した」生活を送る意味があるのかと、最近疑問に思っています。なにせ、大学生活は私にとって自由な期間であり、私にとって適した形で生活を組みなおしても良いのではないかと、そう考えつつあります。今学期はこの忙しい生活は変えられず、これはこれで良い経験であるとして、9月以降の生活を考えていくにあたり、この気づきは大切にしていこうと思います。いちおう今学期中のこの環境であと1か月半生活するのは可能であるという自信はあります。

卑屈な記事になってしまいました(笑)

私はよく考えすぎたといわれます。ものごとをいちいち難しく捉えることが好きな性であるためです。すごく悩み相談的な記事になり、読む側の人間としてあまり良い気分になってもらえる内容ではないかもしれません。ただ、書く私の側からは、こうして悩み事をここにたくさん書いていくのは、発散という意味でとても心の浄化作用があるものです。また、未来の自分が振り返った時に、この時期俺はこんなこと悩んでたのか、と深い感想を得られるかもしれない、こんな点でもいちおう悩み並べる系の記事の意味もあるわけです。

まとめ:noteの温かい言葉

下書き機能を使うと、いったん中断するときに「執筆お疲れ様です」とねぎらってもらえます。どこにでもいる大学生のうちの一人である私が記事を書いていることに対し、ねぎらいの言葉をかけてもらい、シンプルに心が温まる思いです。今日もしっかりと論理を計画してかいた記事ではありませんでしたが、最後までしっかりお読みいただいてありがとうございます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?