レンタルCDの歴史とジャニス

「ジャニス、閉店―。」
2018年8月末、日本の音楽ファンの間に衝撃的なニュースが駆け巡った。東京・神保町に店を構えるレンタルCD&DVDショップ「ジャニス」が、11月をもって閉店すると発表されたのだ。
ジャニスは「日本一マニアックなレンタルCD店」と自負し、廃盤になったCDのみならず、サンプル・デモCDや自主制作盤に至るまで、とにかく圧倒的な取り扱い在庫量を誇っており、各方面から絶大な支持を得ていた。閉店の一報を受け、音楽ファンのみならず、アーティストや著名人までもが、ジャニスの思い出を各々語っていることも、ジャニスという場所がいかに特別だったかを証明している。タモリ俱楽部の「空耳アワー」のスタッフが利用していて、閉店されるとコーナーの存続にも影響が出る、というエピソードが非常に面白かった。
さて、ここで自分が気になったのは、レンタルCDおよびレンタルレコードの歴史についてである。今でこそTSUTAYAとGEOの2強、かつその2強もサブスクリプションサービスの台頭やCDの売上減の影響を大きく受けている状態であるが、この業態がどのように盛衰し、またジャニスはどのような立場であり続けてきたのかに非常に興味が湧き、調べてみた。

日本初のレンタルレコード店がどこであるかについては、正確な情報が残っていない。少なくとも1970年代後半には、レコードを貸し出して収益を得ていたお店がいくつかあったようだが、数としてはせいぜい数十店舗ほどで、規模はそれほど大きなものではなかった。
貸しレコードという事業が全国的に大きく拡大していくきっかけになったのは、1980年6月に東京・三鷹に開業した「黎紅堂(れいこうどう)」の存在である。立教大学の学生であった大浦清一氏が、図書館のレコード貸出サービスをビジネス化できないか考え、レコードを定価の10分の1ほどの値段で貸し出す、という事業を始めた。前年の1979年にソニーがウォークマンを開発・大流行していたことから、「借りてきたレコードをカセットテープに録音し、ウォークマンで持ち歩く」という新しい音楽の楽しみ方がみるみる広まり、同時期に様々なレンタルレコード店が開業した。この時期に開業し、現在も営業を続けているお店は非常に少ないが、大阪にあるK2レコードは1980年6月開業と、黎紅堂と全く同じ時期に貸しレコード業を始めている。
黎紅堂はその後、フランチャイズ契約によるチェーン展開を開始したことで、一気に業界を拡大させ、パイオニア的存在となった。また、1980年11月に吉祥寺で創業した「友&愛」や、1981年創業の京都の「レック」、神戸の「ジョイフル」などもチェーン展開を行い、全国的に貸しレコード業が広まった。1981年末には、レンタルレコード店が全国で1,000店舗を上回ったという。
たった1年ほどで1000店舗、という急速な成長に待ったをかけたのが、貸しレコードの普及によって売上を奪われかねない既存の音楽業界である。当時は貸しレコード業に対応する法律(当時の著作権法には貸与や報酬請求に関する規定がなかった)がなく、貸しレコードによって発生する利益はレコード会社および歌手側には全く入らず、また新品のレコードの売上高も落ちるなど、既存の仕組みが大きく破壊されかねない事態に陥っていた。よって、1981年10月、レコード会社13社と日本レコード協会が、先述の黎紅堂、友&愛、レック、ジョイフルという大手4社に対し、貸しレコード業は著作権侵害だとして、レコードの貸出禁止を求める民事訴訟を起こした。この訴訟は1984年5月に著作権法が改正されたことによって決着を見るが、急速に店舗数を伸ばしていたレンタルレコード店も、この1981年後半~1984年前半の時期は、その伸びが一時的に鈍化している。
著作権法の改正により、貸しレコード業はアーティストに使用料を払うことにより合法とされたことで、レンタルレコード店はますます数を増やしていく。1984年の約1900店舗から、1989年には約6200店舗と、5年間で3倍以上の店舗数になった。この急成長に関しては、法改正の他にももう一つ理由がある。1986年にCDのレンタルが開始されたことと、レコードとCDの売上枚数が逆転したことによって、CDの在庫さえあれば、既存の大手レンタルレコードチェーンを打ち負かすことができた、すなわち、新規も既存大手も同じ土俵での勝負になった、という理由だ。
なお、パイオニア的存在だった黎紅堂は1986年になんと倒産している。CDのレンタル解禁を契機に、総合スーパー等の異業種大手が参入をしてきたことや、CDの仕入れに多額の費用がかかったこと、例の裁判によるダメージが残っていたことなどが原因としてあげられる。事実として、黎紅堂は1982年に日本音楽著作権協会からも民事訴訟を起こされており、学生ベンチャーから急速に発展を遂げた企業にとって、このような異業種大手や権力団体と戦うには、体力の限界があったのだろうと推測される。
また、1980年代後半には、家庭用ビデオデッキの普及により、レンタルビデオとレンタルCDを併設した店舗が非常に増えた。1985年に27.8%だったビデオデッキの普及率は、1990年には66.8%になった。VHSのレンタルの需要が急激に伸びたことで、大手のレンタルCD店は、CDとともにVHSの在庫も揃えなくてはならなかった。黎紅堂倒産によって日本一のレンタルCDチェーンとなった友&愛は、レンタルビデオへの対応が遅れたことにより、新規参入組によって盟主の座を奪われた。
では、1981年に開業し、黎紅堂や友&愛と同じようにレコードからCDという激動の時代を経験したジャニスはどう生き残ったのかというと、1980年代前半には既にマニアック路線に舵を切っていたようだ。付近に黎紅堂・友&愛といった大手チェーン店が存在しており、立地的にはあまり良いとは言えないジャニスは、大手にはない品揃えでライバルの2大チェーン店との競争に勝ったのである。CDやレコードの在庫を揃えることに資源を集中させるため、大衆映画などのVHSはほとんど入荷しなかったこともまた、他店との差別化になった。
同様にマニアックな品揃えで大手チェーンに対抗した店はいくつかあったようだ。しかし、1991年の著作権法改正により、洋楽の新譜は1年間レンタルが禁止になってしまった。当時3~4割ほどを占めていたとされる洋楽レンタル市場のうち、新譜の貸出が禁じられてしまったことは、当然レンタルCD店にとって大打撃であったようで、1991~1992年のたった1年間で1割以上にあたる600店舗以上が閉店・閉業し、その後もレンタルCD店は減少の一途を辿り続けている。レンタルCDの大手だったレックを運営していた株式会社音通は、失われる洋楽レンタルの売上をカバーするために他業種に参入し、のちにレンタルCD事業を売却している。
その後のジャニスの隆盛については、下の記事にほぼすべて書いてあるので、こちらを読めばほとんど理解できる。

https://natalie.mu/music/column/310049

1989年をピークに減少に転じたレンタルCD店だが、2010年頃より店舗数の減少幅が大きくなり始めている。2018年現在での店舗数は2043。おそらく今は2000店舗を下回っているだろう。ピーク時の3分の1以下だ。サブスクリプション方式の音楽配信サービスが普及し、レンタルCD店はほとんどその役割を終えてしまっているのかもしれない。ではサブスクリプションサービスはレンタルCDの上位互換だろうか、と考えると、必ずしもそうではない部分があると思う。この問題はまた別の機会に語りたいが、アーティストへの還元額は1再生あたり0.2円ほどと言われている。アルバムが10曲だとして、全部聞いても2円。レンタルCDが1回貸し出されるとアーティストには約50円入ることを考えると、レンタルからサブスクへの移行はアーティストにとってあまり利益にならないのでは、とも思ってしまう。
レンタルCD店の功罪は様々だ。正直言って罪の部分の方も大きいのでは、と調べていて感じた。とはいえ、音楽を安く聴くための手法として長らくインフラ化していたことは確かだ。多くのミュージシャンもお金のない青春時代は間違いなくレンタルCDを利用していたはずで、これが無ければ生まれなかった作品もたくさんあるだろう。いつかはレンタルCDのことも、ジャニスのことも、全く過去のことになってしまうのだろうかと思うと、少し寂しいなと思う次第である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?