見出し画像

"No Rules" ネトフリの組織に関する本

*ルールが必要になる人材を雇わない
*社員の意思決定を尊重する
*不要な社内規定を全部捨てよ
*承認プロセスは全廃していい

これ、本当に正しいのかな・・・

+++

現在松本にある、松本本箱なる温泉旅館に来ている。去年同じ時期に箱根本箱さんという同系列の温泉旅館を訪れてこの「本箱」シリーズを偉く気に入ってしまい、一年越しに系列旅館に来訪した次第である。

この「本箱」シリーズの特徴はなんといっても1万以上の本が読み放題なこと。そして置いてある本はすべて購入可能なので、気に入ったらそのままお金払って持ち帰れるという、本好きにはたまらない旅館なのである。

ここでは普段読まない本を読もうと決心して、普段はなかなか手が付けられないナチュールワインに関して、イスラム教世界に関して、SDGsに関して、漆器に関して、自家製鍋に関してなどを意識的に手に取ろうと心掛けていたのだが、やはり根底にある人間としてのつまらなさが溢れ出すことを抑えきれず、ビジネス書にも数書手を出してしまった。

その中でも今回心に残ったのは、Netflixの企業文化について同社CEOのReed Hastings氏とInseadのMBA教授が書き下ろした"No Rules"という本について思ったことなどをつらつらと綴ってみたい。

本そのものは非常に面白く、(少なくとも文体としては)易しいので読みやすい。要するに、なぜNetflixが優秀な人材を集められて、最高のパフォーマンスを発揮して頂き、21世紀で最も成功した企業の一つになっているかを、組織論的な観点から説明している本である。

その中で、ここで語られている主張のコアは、無用なルールをなくし、正直な意見を(Politeに、目的をはっきりさせた上で)お互いにフィードバックしあっていくことが肝要であるということであると、僕は理解している。そして、これは素敵な考え方だと思うし、ぜひ真似を出来るところはしたいなと思う。

ただ、上記の組織としての姿勢の前提には、本当に優秀な人だけを組織に残し、あとの凡庸な人、あるいは組織に悪影響を与えうる人間は、「十分な退職金をお支払いして」退場して頂くという大前提がある。これが、1丁目1番地の施策であり、その後は優秀な人に裁量権を持たせ、優秀な人同士の正直な意見によりアイデアをスパークさせる為の最善策を打つ、ということに尽きる。

本の文中で、どこかの大学の組織力学的なスタディが例として挙げられている。それは、「優秀な人を集めた複数のチームに、組織に悪影響を与えうる行動を取る役者を入れて、その反応を見る」ということである。役者の役回りはそれぞれで、人格否定をする者、悲観的な者、ぼーっとして何もしない者など様々だった。そして、各チームには45分間のグルディスをさせるという実験が実施された。

結果として、上記の役回りを持つ役者を入れたチームは、ディスカッションの時間がたつに連れて議論の質が低下し、結果としてアウトプットの質も低下した。つまり、そのスタディにおける結論は、一人でも凡庸あるいはネガティブ因子を持つメンバーがいるチームは、いかに他が優秀であろうとパフォーマンスが一様に下がるということである。

多分、これは自己反省も含めて、すべての人間が感覚的に理解できる結論だと思う。一人でもネガティブ因子がいると、その人のカバーで優秀な人が楽しい発想、クリエイティブな発想が出来なくなって、アウトプットの質が低下することが容易に想像がつく。

そこでネットフリックスが何をしているかというと、そういった人には一様に退場して頂いているのである。そして恐らくこれは、成果を出しているテック企業、所謂プロフェッショナルファームと言われる組織、引いてはグローバルに尊敬を集めている企業におけるスタンダードなのでは?と思っている。

ビジョナリーカンパニーという名著の中で、MVVを体現している企業に関する神話のうち、誤っているものが本の冒頭に記載されている。その中のNo.7は、これだ。

「ビジョナリーカンパニーは、だれにとってもすばらしい職場である」

これは誤りというのだ。

「ビジョナリーカンパニーは、その基本理念と高い要求にぴったりと「合う」者にとってだけ、すばらしい職場である」

僕は、この考え方を礼賛し、すぐに日本企業においても実践すべきと言いたい訳ではない。正直に言うと、わからない。

確かに、この理論で構築された組織は、圧倒的な成果を出すと思う。それも少人数で。そこに属するメンバーは、高い報酬と素晴らしいやり甲斐をもって生き生きと人生を過ごすだろうし、株主も満足のいくリターンを得られると思う。

まさに3方良しじゃないか、とも勿論思う。しかし、こうした最適化が各所で起きると、あまりにも「負け組」の数が多くなりすぎるんじゃないのか?と思ってしまう。

現在富が集まりつつあるネット型資本主義は勝者総どりでかつ、(少なくともレガシー産業と比較すると)労働あるいは資本集約型のビジネスではないため、企業は(相対的に)少数精鋭型組織である。

そうすると、ずば抜けて待遇が良く、幸せな人はどんどん幸せになる一方で、その社会に適応出来ないもの、つまり「合わない者」はどんどん待遇が悪くなり、不幸せになる。そして、自分が後者になってしまう確率は、組織がネットフリックスの様に最適化が進んでいくに連れて、増していく・・・

日本ではおそらく、(少なくとも筆者が属している会社では) ネットフリックスの様なドラスティックな人事は実質的に不可能だ。そうすると愚痴を言うおじさん、働かないおばさん、単純に能力が欠如している若者などが組織の中に入り混じっている状態になる。育てれば何とかなる理論を前提とする新卒一括採用が組織のベースであり続ける限り、これは避けることのできない構造的な問題である。

するとどうなるかというと、これまでの遺産(それも莫大な遺産)で食いつなぐことは出来、愚痴を居酒屋で言ってればそこそこみんなハッピーで、時は流れていく。

結果として、ネットフリックスの様な企業と比べて、発生するイノベーションの質、総量ともに、その将来への期待値も含めて劣後することは必然である。PBRは1を割り、時価総額は低下する。

こりゃまずいじゃないか、早急に変えなければならない、と思うところだが、ちょっと待てよと。社会不安になっているのって、日本じゃなくてアメリカの方だな、と気づく。日本はみんなでずるずると地盤沈下していくので特定の何かに対する憎悪はわかない。基本的にはみんな(極端な話)±10%の範疇で済むからである。アメリカでは、確実に「負け組」になってしまった人の総量は増えていると思う。それは、ネットフリックスの様な企業が増えているからではないか・・・


と、色々書き殴ってみたものの、結局こんな誰も見ない分析をしたところでしょうがない訳であって、自分がどう生きたいかということに尽きるとは思います。せめて気前よく孫にお年玉あげられるお爺さんになれればいいかな~



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?