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『ペトリコール、君』②

*2

 パスタにピザにチキンにドリアが、男の口の中に次々運ばれて行く。見ているだけで吐き気がするラインナップに、少食のれいはチーズとトマトのサラダを食べる手が止まる。男は指についた辛味ソースを舐めながら、気分が悪そうに眉を顰めているれいの顔を覗き込んでいた。れいはその視線に促されるようにして、フォークをチーズに刺すも、口に運べる程の元気は湧かずにいた。

「人のお金でよくそんなに食べられますね」
「二日くらい食えてへんかったからね。ほんまに助かったわ」
「無職なんですか?」
「ちゃうよ。あ、俺名前とか言うてへんな。 やば、忘れてたわ」

 男は慌てて指を濡れタオルで指を拭いた。サコシュバッグからプラスチックの名札を取り出し、れいの前に指し示す。そこには『カナリア書店 綴心結(つづりみゆ)』と書かれていた。名刺にも添えられている可愛らしい水彩タッチのカナリアの絵にはおぼろげながら見覚えがあった。通勤ルートの途中に見かける小さな店であろう。れいは好きな小説を電子書籍で読むくらいしかしないため、わざわざ入ったことは無かったが。
 れいは自分も名乗るため、身分を証明できるものを示そうと思ったが、何も持ち合わせていないことに気が付き、あっという口をする。さっきまで明らかに向こうの方が怪しい存在であったのに、スマホとロールケーキだけで身分も証明出来ないこちら側が途端に社会不適合の立場に置かれ、情けない気持ちになる。いやいや、ちゃんと働いているし。テーマパークのアクターとして一般人の十倍は笑顔を作り、家に帰れば姉の世話をし、自分の時間など一つもないくらいに、働いているし。考えるほどに、れいの食欲は減退する。無言の間に、物欲しそうな顔をしている心結へ華奢な指先でサラダの皿を押す。

「要ります? 食べかけですけど」
「ええの?」

 ばくばく食べ始めた心結の姿を眺めながら、れいはぼんやりしていた。三口ほどで食べ終えてしまった心結は、まだ残っていたボンゴレパスタに手をつけていたが、貝の殻がフォークにかちゃかちゃぶつかる音に居心地の悪さを感じ、手を止めた。

「キレーな兄ちゃんさ」
「その呼び方止めませんか。返事しにくいです」
「名前なに?」
「神夏磯れいです。……あ、こういう漢字で、カミカイソ」

 れいがスマホでフリック入力して見せると、心結は大袈裟に頷いた。唇をぺろりと舐め、ぐりぐりした瞳でじっとれいの一挙一動を見つめる。お互いが警戒心と好奇心を持って観察し合っているその目は、不思議と合うことはないまま、その不協和音が人間的な生々しいリズムを作って不思議な時間が過ぎていた。

「れいくん、イケメンやんな」 
「そうですね」 
「せやけど、なんかしんどそう」

 心結は手を伸ばし、れいの凝り固まった頬をつんと押した。その手はやはり冷たかった。れいの長い睫毛がぴくりと動く。不快であるという意味であった。それを見ていた心結は含みのある笑みを不格好に浮かべた。   
 しんどそう、と思うのなら奢らせるなよと心の中で吐き捨てる。苦労を背負っていると気づかれるくらいなら、苦労などしたこともない奴だと認識される方が幾分かマシだとれいは思っていた。事情を何も知らない人から見て、れいはクールな男ではあるが、幸薄さとは無縁であった。見目も良くて運動も得意で、恵まれてる人だねと言われて生きてきた。実際、れい自身もそう思っていて、家庭の事情とかそんなのはきっとどの家にもあるものだから、自分は不幸ではないのだと、思うことにしていた。

「しんどいわけないじゃないですか。顔良く生まれてるんですよ。それだけで恵まれてるよねってみんな言います」
「関係あらへんよ。人には人の不幸があるもんやん。れいくんがイケメンだろうと、辛いものは辛い」

 辛いとか悲しいとかそんなことは決して、口に出したくはなかった。形にしてしまっては、あまりに苦しいから。他人に指摘されればされるほど、棘のように刺さったそれが、痛くて痒かった。
 心結は僅かに振れたれいの機微を感じとったのか、フォークをおいて真っ直ぐ彼を見つめた。

「ボンゴレ冷めますよ」
「ええよ別に」
「冷めたパスタは不味いです」
「俺、冷めた飯平気やねん」
「僕は嫌です。昔、父が帰ってこなかった日に。ナポリタン作って待ってたんですよ。でも夜になっても帰ってこなくて、夜中にそれを食べました。……いや、ごめんなさい。なんていうか、それだけなんですよ。ぜんぶ、きっと、今の……そういう、のとかも」

 こんな話をするつもりは無かったが、一粒溢れたそれは、ぽろぽろと溢れていってしまって、こめかみを締め付ける血脈となった。何歳ぶりだろうか、こうやって誰かと確かに向かい合って話をするということ、他人の視線を以てして人は人の形になるのだとれいは思う。れいの長い睫毛が瞬きを一つして、紫陽花の葉から滑り落ちる露のように、涙が落ちた。

「しんどいやんけ、そんなん」

 小賢しくない心結の言葉は良くも悪くもストレートで、大きな波紋のように響いてしまう。だからこそれいは静かに頭を振った。それから、白い手で目元を覆った。唇が震えていた。心結は紙ナプキンを差し出してみたが、れいはそれを受け取らなかった。
 外では未だ、雨が降り頻っていた。ほとんど客のいなくなったファミレスで閉店間際を知らせる音が鳴り響く。心結は紙ナプキンをれいの手前に置くと、ふやけたパスタをフォークに巻きつけた。

「一緒に食えば変わるんちゃうの。夜中に食べる飯は不倫の味がするそうですよ、ってドラマで聞いたことあるし」
「不倫の味なんて、美味しいんですか」
「うん。俺、不倫してんねやんか。それが、冷めとんのやったら余計に、現実的で最高」

 フォークを口元にまで持っていってぴたと動きを止めた心結が、ちらりと上目にれいを見やった。くっきりとした輪郭の丸い黒目が蛍光灯の下に照らされて、れいの心をざわめかせる。沈黙、それから、どうにもならなくなってれいは紙ナプキンをぐしゃぐしゃに丸めた。心結にぶつけることはなく、やり場がなくなってテーブルの上に転がした。負の感情のぶつけ方を知らない彼は、確かに罪一つ無く真面目に生きてきても良いことが有るわけでないことを知っていて、だからこそ罪の味など、認めたくは無かったのだ。寂しかったり辛かったりして、人を傷つける道を選ぶことを、決して肯定する気はない。そうでなければ、頑張って生きてきたのが馬鹿らしくてやってられない。本当のところ、れいだって、人を恨んで声を荒げて全部投げ出して走り出したい夜もある。今日がそんな夜だからって、その道を選ぼうとは思わない。あなたが選んだのでしょう、なんて言われたくはない。誰が、出来ようか。そんなことを。るりが、彼女がおかしくなってしまったのは彼女のせいではないし、それに父母が耐えられなかったのも責められることじゃない。そこかられいが逃げられないことも、るりを見捨てられずにいることも、それで辛いと思ってしまうのも、致し方無くて。罪さえ犯せば、自由にはなれるだろうが。
 ロールケーキの保冷剤代わりにしていたロックアイスが、店内の温度に溶かされてしまう程に時間は経ち、相対しなければならない現実がすぐそこまで来ていた。れいは財布から一万円札を出し、心結の前に叩きつけた。

「これで足りると思うので。あ、あと傘もあげます」
「そんな怒らんでもええやん」 
「僕たちはもう二度と会わないですね。さようなら」

 本当はもっと捨て台詞を吐いてしまいたかった。それくらいに、心結の言葉が癇に障っていたが、その理由が理路整然と答えられるものではないことはれい自身が一番良く理解していた。綺麗で冷淡なれいくんと揶揄されたことがあっても、やはり、れいにとっては人を冷たく突き刺すことは簡単ではない。そんなことが出来る人ならば、彼の置かれる現在地は当然こんなことにはなっていなかっただろう。
 立ち上がったれいの腕を心結が掴む。白い歯を見せた笑顔とは裏腹に、鬱血しそうなほど強く握られて、れいは狼狽した。顔の向きは正面のまま、黒目をぎょろりと動かし、横目で睨むようにして射抜く。

「れいくんはこっち側の人間とちゃうんか」

 螢の光と雨音が混じる中、じんわり離れていく掌の体温が気持ち悪かった。ノイズが脳を直接撫でるみたいで、じっと耐えられなくなったれいは、雨降る夜へと駆け出していた。帰りたくないあの家への帰路は、何も考えずとも辿り着けてしまうほどに染み込んでいて、それはどうしたってれいの帰る家であることを、痛みのように教えていたのだ。


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