天才論

天才になりたかった。

ガウスがコンパスと定規で正十七角形の作図方法を思いつき、数学者になろうと決心したという逸話を聞いて、幼少期の僕は無謀にもこの難題に挑戦しようとした。もちろん結果は惨敗だったのだが、この時の気持ちは今でも覚えている。後世まで語り継がれるような人物になりたかったのである。

幼少期

幸運にも物覚えがよかったことと、勉強が楽しいものであると両親に教育してもらえたおかげで、学校の成績はかなり良い方であったと思う。それが故に、天才への欲望は歳を重ねるにつれて増幅していった。90点のテスト結果を自慢している友人を100点だった僕は遠くで眺めつつ、自分が褒められてもさも当然のように受け流していた。この時の感情は自尊だったのか他への侮蔑だったのか、それともただの恥じらいだったのか。今の僕にはわからない。

その頃からだろうか。僕の頭の中に"彼"が生まれた。彼は努力をせず、しかし全てにおいて優秀な成績を収める。そして彼は常に正しいことを行う(ここでいう正しさとは、法的・倫理的な正しさ、学校的な正しさのことである)。

僕は彼になりたくて、彼のようにありたくて。ありもしない天才像に囚われながらプライドを高いところへ押し上げていった。
より冷静に。より真面目に。しかしてより衒学的に。俯瞰的な視点で物事を見つつ、問題点があればすぐにそれを指摘する。今思えばクソ生意気な少年だったのだろう。
だがそう思われることさえも嬉しかった部分もある。歴史上の"天才"もそんな奇怪な目で見られていたんだろうかとも妄想していたのだ。

幸運なことに友人にも恵まれた。地方公立でありがちな勉強をする人を馬鹿にするような風土もなく、クラスメートは僕を認めてくれた(少なくとも僕はそう感じていた)。積極的に友人からの質問にも答えていたのもあるだろう。また、学級委員やクラスの仕事もちゃんとやっていた。彼ならそうするだろうと思ったから。
そんなこんなで僕は彼の背中を追いかけながら、自己研鑽に励み、同時にプライドを高く高く押し上げていったのである。

小学生への敗北

僕が最初の挫折を感じたのは中学3年の夏である。
ど田舎の狭いコミュニティで生きてきた僕は、中学受験で有名私立に進学するような世界のことを知らなかった。今思えばそんな人々と現在大学で友人になっていることが不思議な気持ちである。
その夏、とある本に載っていた開成中学の入試問題を目にした。中学入試だから小学生でも解ける問題のはず。自信の塊であった僕は解けるものだと確信していた。正十七角形の問題はガウスだから解けたのだろうが、開成中学は毎年何百人も解いている。中三の僕が解けないことがあろうか。

…解けなかったのである。行きどころのない怒りが僕の中を駆け巡った。
衝動に任せて部屋の模様替えを行い、勉強机をベッドで封鎖したりもした。
これが何の慰めになるのだろうか。そう理解はしていたものの、堰き止められぬ感情に流されて無為な行動を続けた。

そして、ほとぼりが冷め冷静を取り戻したとき、僕は自分の敗北を悟った。
それは喪失感と無力感にまみれた少年の姿だった。

近くに天才はいた

そんな中学時代だったが、地方公立中学校で常に学年一位を取っていたわけではない。というか学年一位は一度も取ることができなかった。というのも、クラスメートにとても優秀な友人がいたためである。
友はもともと有していた才能に加え、努力の天才でもあった。僕が努力したつもりでも、平気でその上を超えてしまう、そんな人だった。
僕が唯一勝てそうだと思ったのは、定期テストで五教科494点を取った時である。最後に返却される国語の前の時点で、二人とも合計399点であり、国語で高い方が勝ち、その状況下で僕の国語の点数は95点だった。
流石に勝ったと思った。しかし、友は僕の上をゆく97点を取っていた。

この瞬間、この友には勝てないなと悟ったのである。

中学の卒業アルバムに、別のクラスメートから「『友』が東大行って、『僕』は京大目指せ」と書かれていたことを思い出す。(別に東大と京大に優劣はないのだが、無知の田舎者の戯言と思って許してほしい)無邪気に寄せられる期待の中にも、否応無しに差を見せつけられた気がして嬉しさと悔しさが入り混じっていた。

それから僅か三年後にその友と一緒に東京大学の門を叩くことになるとは、僕はまだ知る由もないのである。

心の氷解

高校時代は、その友とは違う、県内随一の進学校と呼ばれた高校に進学した。友と一緒の学びをしたら、永遠に乗り越えることができないと感じたからである。
高校時代はとてもたくさんの友人に出会った。見る世界が広がった。中学から始めた吹奏楽では東北大会に連れて行ってもらえたし、その中で音楽を創り上げていく喜びを知った。友達と遊ぶという経験もたくさんした。勉強は教えあい、テストの点数を競い合った。毎日の課題は辛かったけど、思うような演奏ができないのは苦しかったけど、何より毎日追い込まれていたけど、とても充実していた日々であることは間違いなかった。
そんな中で、僕の鋼鉄のような心も少しずつ解れ始めた。孤高の存在にならなくてもいい。少しは目立ちたいけれども、この世界で生きる幸せを感じられたらいい。こう思わせてくれたのは先生方や友人のお陰でもある。
そしてその中でもっともっと広い世界を知りたいと思えたのである。

天才像の崩壊

そして決定的な出来事が起こったのは、高校三年の秋である。部活も引退し、入試勉強が本格化してきた時、難関大志望の学生を対象とした講習が始まった。一年時の担任の口車に乗せられるまま東大志望を貫いていた僕は、もちろん講習に参加していた。

しかし、性格というものはそう簡単に変わらないものである。僕の頑固で意地っ張りな性格のために、自分が解けなかった課題を提出することに恥じらいを感じた。だって「彼」なら難なく解けるはずだから。
そのようなことを積み重ね、多くの課題提出が滞ったある時、ついに数学の先生にこう言われた。

ルールに合わせられないようなら、君はもう講習に参加しなくて結構です。

ショックだった。難関大講習に参加できなければ、東大なんて受かる実力でないことは自分が一番よくわかっている。それなのに、もう講習には参加できない。自分の意地っ張りな性格のせいで東大に行けない。考えれば考えるほどしんどくなった。何度も先生に頭を下げて許しを乞うた。しかし許してはくれなかった。
そうはいっても自学すればいいじゃないか、そう思って割り切ろうとしたが、どうしても身が入らない。ずっと頭の中で先生の言葉がこだましている。気づくと数学が何も入ってこなくなった。微分積分が今ひとつ理解できない。どうしよう。でも僕にはどうすることもできなかった。
センター試験演習前の最後の定期試験、僕は数学で平均点を割った。これまでずっと成績上位者に載る成績を取ってきたのに。やるせなさと不安に潰された僕は、物理準備室の担任の机の前で泣いていた。絶望で前が見えなくなっていた。
その後、何とか立ち直りセンター試験で好成績を取ると、担任の先生にも掛け合ってもらいどうにか許しを得て、難関大講習に復帰させてもらった。

君はもっと素直になりなさい。

難関大講習に戻る際にかけられたこの言葉が、僕を救ってくれた。
ありもしない「彼」の幻影に囚われ、意地を張り続け、高いプライドを保ち続けようとした僕だったが、それが全て崩壊したおかげで、自分の弱さを素直に認められたのである。
その結果、人を素直に尊敬できるようになった。意欲的に学ぶことができるようになった。
そして認めることができた。

僕は天才じゃない。

現在

その後、何とか東京大学に合格し、今ここにいる。
東京大学には数えきれないほどの優秀な人がいて、自信の視野の狭さを改めて思い知らされることとなった。
しかし、僕はもう意地を張ることはない。自分の弱さを知り、わからないことを認め、素直に教えを乞うことができたからだ。
そして、その中で様々なことを学び、何かしらの形で恩返しできればと考えるようになった。

僕は天才じゃないので、後世の歴史に残るような発見や功績を残すことは難しいかもしれない。でも、僕の力で関わってくれる人が少しでも幸せに感じてくれれば嬉しい。
あわよくば、その幸せが細々と語り継がれていきますように。

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