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はじめてのストリップショー(松本)

お久しぶりです松本です。
また、だいぶ溜めてしまいました。ごめんなさい!

紫式部の話、刺さりました。
時代を超えてロールモデルを見つけて、心の真ん中に置くって素敵ですよね。そういえば数年前に仕事でご一緒した人は、吉田松陰をロールモデルにしていて、農業を教えるユースホステル的なものをやっていました。「この人を目指す」っていうものが明確だと、考え方の芯があって立ち居振る舞いに一貫性があって、魅力的だなと思います。

私自身はというと、高校生の時から老子に陶酔しています。
漢文の時間に「無用之用」を読んで衝撃を受け、「大学受験に失敗したら成功を目指す人生を諦めて哲学をやろう」と心に決め、無事大学受験に落ち、哲学を学んだのち、社会の波に揉まれ続けています。

私は心の平穏を取り戻せたのか

前回noteを書いたのは昨年でした。
仕事に忙殺されて心が安らがない日を送っていたため、「1日何もしない日をつくる」というタスクを抱えたまま年末年始に突入しました。

結論から言うと年末年始は割としっかりお休みをいただき、全く何もしないまでではなくても、ゆっくりと過ごすことができたように思います。

本当にしょうもない話ですが、年始の休みの期間にRevaundyの「体重の歌」という替え歌を作りました。(元はvaundyの怪獣の歌。)心に余裕ができてこそ、クリエイティビティが発揮できると実感したというどうでもいい話です。

心より身体が大事かもしれない

「心の余裕」の大切さを実感した後、とある学者の方から、こんな話を聞きました。

産業革命以降、人間は身体性の一部を機械に預け続けてきた。AIが台頭している今、人は脳までもを手放そうとしている。AIが進化するのではなく、人が退化してシンギュラリティがくるだろう。

目から鱗でした。確かに、「便利だな〜」と思うテクノロジーを使っていると、出来たはずのことが出来なくなってしまうことはよくあります。(久々に手書きで文字を書くと漢字がわからなくなってしまうとか。)

私は心だけでなく、身体ともっと真面目に向き合わなきゃいけない!と、強く感じたのです。

はじめてのストリップショー

そんなことを感じていたとき、私は知人に誘われて、生まれて初めて浅草ロック座でストリップショーを見に行きました。

華金ということもあり、150席ほどの客席はほぼ満席。客の9割は男性でした。幕が開くと、女性たちが音楽に合わせて踊っています。拍手と共に踊り子の女性がステージを堂々と歩き、衣服を脱いでいく。ステージの先には回転する台があり、女性が全てを露わにしてポーズを決め、回転するのです。

私はそれを見ながら、「なぜ、皆ストリップショーを見にきているんだろう?」と考えていました。

女性の裸体を見たいなら性風俗に行けば良いですし、踊りを見たいならダンスショーや舞台を見に行けば良いですよね。なぜ、客はあえてストリップショーを見に来るのか。そして演者の女性たちも、なぜ楽しそうに、ストリップショーに出るのでしょうか。

「心を解き放つ」表現

私が辿り着いた仮説は、「ストリップショーは、究極の身体性の解放だ」というものでした。

私が見たショーは物語性が強く、苦しむ女性が自分を取り戻すとか、楽しく遊んでいる女性がさらにはっちゃけるといったようなストーリーに沿って踊るものでした。

その中で、「自分を取り戻す瞬間」「さらにはっちゃける瞬間」などで、衣服を脱ぐのです。そして、身体を余すことなくさらけ出し、360度回転する台でポーズを決めていきます。

人の心が解放された瞬間を身体で表現するなら、脱ぐのは道理にかなっているな、とひとり納得して劇場を後にしました。

身体を解放した先に

ドイツには、「FKK」というビーチで裸になる文化があるようです。日本では、裸で温泉に入る文化があります。温泉に入るとストレスから解放されたり、心が安らいだりするのは、温泉成分だけではなく身体を解放していることもあるのかもしれません。

ストレスフルな社会で、悩みごとや困りごとが絶えない日常ですが、今一度自分自身の心と身体を見つめ直していきたいなと感じたここ最近でした。

次は栗山さん、本当にお待たせしてすみませんでした!


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