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変わってしまった人生計画

ゆるっと構えていた人生計画てきなものが、ガラリと変わりそうな予感でうろたえと戸惑いを隠せません。

先月、ずっと統合失調症の闘病生活を続けていた兄が、35歳という若さで急逝してしまった。最後は筋力の衰えによる、肺での血栓で。

患っていた病が心の病である以上、そんなに若くして亡くなってしまうとは思っていなかった。油断していた。

兄は中学生になる頃から病状が出始めた。卒業こそしたけど中学の勉学をきちんとしたとは言えず、出席日数だけ保健室で稼いだ形で、義務教育すら満足に受けられなかった。その後は10年くらいずっと入院していた。

薬のバランスなどが見つかって、自宅に戻り、作業所で働き、施設に一人暮らしの練習に行くほど病状が改善した時期もあった。しかし母親との衝突のあとに、コロナによる社会の変化もあり、また入院生活へと戻ってしまった。

2023年はコロナ禍が本格的に終わって、日常的な暮らしが戻ってきた人も多いように思うが、私の兄には悪化した病状がまた改善するまでの長い道のりがあった。それでも病院に面会に行っても、兄の体調が悪くて会えないことの方が多かった。たまに送ってもらう写真の表情などで、嬉しそうであっても薬の影響が目に見えていて、とても改善していっているとは思えなかった。それでもどこか、兄が入院していることに慣れてしまっていた自分もいた。

亡くなったという知らせを受けて、飛行機に乗っても悲しさが時より押し寄せるもののまだ現実がよくわからず。実家の庭先に着いて、とっくに離婚していて離婚後顔を合わせることすらなかったはずの両親に揃って迎えられて。ただただ違和感。いよいよ玄関を入って、線香の香りがして。涙が溢れてきて。兄の部屋を恐る恐る覗き込んで。いつもベッドがあった場所に足だけが見えて、「そっか、亡くなったから北枕か。」と思った瞬間に現実を受け止めるしかなくなって。泣くしかなかった。

どうしても最後に一目会いたくて帰国したけど、死んじゃった後に行く意味。生きている間にもっと会いたかった。もっと生きててほしかった。



兄があたかも精神病患者という様子を曝け出しながら卒業していった中学校に進学するのはしんどかったし、両親の離婚のことも含めて近所の視線はいつも冷たくて差別的だった。こんな地元嫌いだし出て行ってやるって思った。喧嘩しかしない両親も嫌いで、実家に思い入れなんかなかった。

なかなか両親が兄の病気を認めず、兄が自宅で闘病を続ける間は、兄の具合が悪くて一晩中大騒ぎしてしまって、睡眠が全く取れないまま自分は学校にいかなければならないこともあった。なんでこんな中で育たなきゃいけないんだって思うことは多かった。正直両親へも兄へも恨みが尽きない時期はあった。でも、時折具合がいいときの兄に謝られて、わざとじゃないんだと理解した。仕方なく我慢する日々が続いた。兄が入院して、いよいよ病人なんだと辛く思う反面、やっと毎晩ちゃんと眠れるのかとほっとしてしまった部分も正直あった。

両親が離婚したあとに、一番上の兄が結婚して、お嫁さんが来て、甥が産まれて。少しずつ、家族というものが好きになった。みんなといる時間を楽しいと思えることが増えた。

でも、いつでもなにをしていても病院にいる兄のことが気になるか、一緒に兄が外出できたときには、周囲からの差別的な視線が気になった。ちょっとした挙動で、周りは私の兄が精神病患者であることに気づく。私も、なにかをきっかけに今急に兄の具合が悪くなったりしないか、と緊張する。そんなことの繰り返しだった。こんな風に思わせる世間の冷たさが嫌いだと思ったし、周りの目を気にして兄との時間を楽しめずにいる自分も情けなくて嫌いだった。

年齢で考えたら、両親が先にきっと亡くなってしまって、そのあとは長兄と私の2人で次兄をサポートしていく。それはいつからか自然に生まれた覚悟で。兄妹である以上、次兄を見捨てはしないと決めていた。自分は結婚も出産もしていないけど、将来守るべきものがあるという不思議な気持ちだった。

長兄はいつだって私がこの責任から逃げられるよう計らってくれていたけど、海外に移住しても、そのときがきたら兄たちのサポートは惜しまない気でいた。帰国するのが次兄のためならそれはしなくていいと言ってくれた長兄に感謝はしつつも、時が来たら家族のために本帰国するつもりだった。

そういった覚悟も、両親兄妹が各々していた金銭的な準備も、すべて残して次兄は急にいなくなってしまった。

「拍子抜け」と長兄は言った。
私もそう思った。

そして、次兄がもういないこと、叶えられなかった夢や願いの方がきっと多かったこと、いろんなことへの悔しさと、寂しさと、悲しさが、たくさん。



発病前の幼少期を思い出すと、とても優しい兄だった。
自分でおこづかいを貯めてゲームを買うのに、なぜかいつも、その大事なお金を、私と長兄も一緒に遊べるようにと、コントローラーを買うのに使うような人だった。

叔父におこづかいをもらってコンビニに行っても、私はもらったお金を使い切るのに、「ほしいものがなかった」と言っておこづかいを返すような欲のない人だった。

従姉妹3人がそろっていたずらや大騒ぎをしていると、いつも心配そうにソワソワ見守っている人だった。

同じ部屋に暮らしてても、自分から嫌がらせや八つ当たりはしてこない人だった。いつも私が始めちゃって、それに対抗するだけだった。

私に本気で怒ったことは、きっとない。生意気で気が強い妹に押されながらも、可愛がってくれていた。

いつもおこづかいを大切に貯めていて、いつか大きな家を建てるんだと言っ
ていた。(兄や妹にコントローラー買ってる場合じゃないだろ!といつもツッコミを心の中で入れていた)

3年前に長兄とも母とも口をきかなくなったときも、慌てて帰国して様子を見に来た私には優しくて。作業所に通ってお給料がで始めたことでたくさん自信がついたようで、とても嬉しそうに、目を輝かせて「やっとプラマイゼロになったんだ!」「そうだよ、お給料も出るようになったから、プラマイプラスだよ!」と語ってくれた。病院や施設にお金を払うだけの人生から、富を産む側に買われたことを心底喜んでいた。いつもサポートに徹していた母と長兄とのコミュニケーションがうまくいっておらず、「2人はわかってくれないんだよ!俺だってできるのに!」と悔しがっていた。

その姿を見れたこと、その瞬間にきちんと次兄をサポートする機会があったことを今ではとても幸せなことだったと思う。


もう、家族のために日本に帰るという決断をすることはなくなった。
自分にあるはずだった家族の責任もなくなった。

肩の荷が降りるはずなのに、寂しさしかない。
一緒に育った人を失うのって、こんなにしんどいんだなぁと。
恨んだことだってあったけど、それはこの境遇や社会や病気に対してであって、次兄のことを個人的に恨んでいたわけではなくて。もうちょっと生きて、迷惑かけ尽くしてから亡くなってくれてよかったのに。あとひとつでも多く、夢や目標を叶えてから亡くなってくれてもよかったのに。

私が就職したり、海外に引っ越したり、いろんな節目で「また負けちゃったよ!」「俺だってこれはできるよ!」と嬉しそうに寂しそうにしていた。私との人生の違いを見ることは次兄にとってもきっと辛かった。私も普通の暮らしを送れない次兄を見ると心が痛かった。いろいろ思っても、やっぱり兄が亡くなったのが今でよかったとは決して思えない。

最後に通夜と告別式は地元で一緒に育った従姉妹親戚のメンバーで集まってできたことが唯一嬉しいことだった。思い出話に花が咲いて、楽しかったことをたくさん思い出せて、親族への感謝が尽きなかった。

ぽっかり穴が空いたような気がする自分の人生に、この転機に、心がまだまだついていきません。でも、時間は過ぎてしまうしいろいろ他のことが起き続けるので、ちょっと、ストップ、といいたい。今だけちょっと時間を止めたい。


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