海外で生活してみたら、友達にドタキャンされても何とも思わなくなった
海外生活3年目に入り、強がりでも何でもなく、本当に心からドタキャンされてもそれが当日朝の連絡でも、良くも悪くもどうでもいいと思うようになった。
ちなみに今日はビール祭りに行く約束をしていたのだが、一人は二日酔い、一人はなんか寒気がすると今日の朝連絡があり、私も最近買ったFF7Rebirthやりたかったしちょうどいいや、ついでにカフェで勉強でもするかー!ということで近所のカフェにいる。(上記の写真)
何にもない日曜日になったが、これはこれで平和でいい感じだ。
日本で生活していた時には、約束を断ることに対してはなかなかの勇気が必要だった。
折角時間を作ってくれていたのに直前に断ることは申し訳ないという気持ちが勝ち、自分が疲れていても、当日仕事が忙しくてもなるべく約束を優先してたように思う。
この時の自分を否定するわけではない。むしろよく頑張っていた。
日本で約束がある時は居酒屋やレストランの予約をしている時が多いので、キャンセルは迷惑がかかるという事情もある。
ただ周りもちゃんとしているのだから、自分もその基準に合わせなければという不安にも似た気持ちがいつも心のどこかにあった。
本来私は「今日の夜食べたいものもわかんないのに、明日の朝何してるかとか知るわけないわ〜」という適当な人間なのに、である。
フランスに住んで1年、ドイツに住んで2年目に突入し、日本人がそこまで周りに多くない環境のため海外の友達が増えた。
その結果、私の眠っていた適当さが再び目を覚ましつつあるのを感じている。
日本にいたときは、友達からの言い訳ももう少しきちんとしていたと思うが、こちらに来てから聞く言い訳は取り繕うつもりもなさすぎて面白い。
「自分が思った以上の酒を飲みすぎて寝てた」
「上司が機嫌悪くて私もなんかやんなちゃった」
「なんかちょっと気分落ち込んでるから今日はひとりになりたい」
「よくわかんないけどごめん、めっちゃ眠い」
お分かりだろうか、見事にOngoingな自分の事情や気持ちも惜しげもなく披露してくれている。
初めのうちは、ちょっと突然失礼じゃない?私だって時間作ったのに蔑ろにしてない?という気持ちにもなり、相手にそのまま伝え言い合いになったこともある。
そして年月が経ち気づいたことは、本当に蔑ろにされてるわけでも、大事にされてないわけでも何でもなく、ただ彼らは今、この場の、今の自分を最優先して生きているということだった。
なので、もし私が同じように当日、ごめん今日ちょっとやなことあって機嫌悪すぎて会えない、となっても責められることはない。むしろオッケー大丈夫、そんな日もあるよね。元気になったら話聞くから会おうね、といった具合である。
心から楽しめなくていいなら別に会わなくてもいいよ、またベストなタイミングでね、という心持ちだろう。
慣れてくると私はこっちの方が気をつかわなくて楽だが、日本に帰って同じようにはきっとできないだろう。
日本にいた時は、「不思議だよね」「天然だよね」と言われることも多く、特に初対面の人とはいつも少し緊張しながら接していた。
私のことを「いつも自由で天真爛漫だよね・・・」と言った先輩、今ならわかる、あれはいつも優しく気遣い上手な彼女の精一杯の嫌味だった。
マナーや歴史を知ること、文化の尊重、教養は大事だ。これは世界中どこへ行ってもついて回る。これは自分の個性とはまた別の話で身につけていて損はない。
でも常識はどうだろう?
日本にいた私の「ドタキャンは失礼」の常識は「どうでもいい」に変わった。
それともドタキャンはマナーの範疇に入るのだろうか。
特に答えはない。
ただ日本で駅ビルのマネキンコーデをそのまま着て、きちんと髪をセットし化粧をし、ヒールを履いて人に会っていたことが懐かしい。
着古したセーターにジーンズ、いつものスニーカーで過ごすこの呑気な日々も、私は結構気に入っている。
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