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★『空襲と文学』W・G・ゼーバルト

戦争について、人間が行う暴力、残虐性について、弱さについて、
そして悪について── それに向き合うことが免除される人はいない。

この『空襲と文学』という本は、以前読んで、ここでも紹介させていただいた、『アウステルリッツ』の作者、W・G・ゼーバルトという作家の作品だ。

『アウステルリッツ』W.G.ゼーバルト・著

『アウステルリッツ』は、著者の最晩年の作品で、いわば遺稿とも遺言ともいえる散文作品だが、本書『空襲と文学』は、それに先立つ数年前に発表された評論集である。

『空襲と文学』W・G・ゼーバルト

その構成の前半部分は、ゼーバルト自身が1997年にスイスのチューリヒ大学で行った連続講義が元になっている。
要旨としては、第二次世界大戦でドイツが被った空襲体験が戦後ドイツ文学においてほとんど表現されておらず、次世代にもなんら継承されていないという主張だった。

そして後半部分は、三つの評論から成っており、その一つは、戦後のドイツ文学界をリードした作家・アルフレート・アンデルシュについて、さらにジャン・アメリー、ペーター・ヴァイスといった、自らの戦争体験を文学や演劇によって表現した作家についての評論が続く。

後半で取り上げた作家については、後者二人については、その作品と製作の姿勢について評価はしているように思われたが、アンデルシュに関しては、「免罪と自己正当化」の文学、とバッサリと切り捨てている感がある。


この本は全体として、一言で言えば、戦争という事実、そしてその体験と記憶をどのように語り継ぐべきか、その姿勢と実際の伝える言葉の在り方について考察している。

さらに詳しく言えば、第二次世界大戦の敗戦国であり、侵略や虐殺という多くの戦禍を残したドイツという国の、戦争についての記録をどのように後世に、言葉によって伝えていくべきかを追究した本だ。

ゼーバルト自身は1944年5月にドイツのアルペン地方の僻村に生まれ、「当時ドイツ帝国に起こっていた惨劇をほとんど身に受けずにおおせた者のひとりに数えられる」。

それでも著者は「その惨劇が自分の記憶のうちに跡を残していること」を感じ、ほぼ戦後生まれという、直接戦争の責任を問われる立場にないにもかかわらず、戦後ドイツの、大戦に関する正確な記録と記憶、そしてそれを後世に伝えていくことの覚悟と責任を自らも負っていることを、この著作を記すことで宣言しているようにも受け取れる。

これは、戦争に関して似た立場に置かれた、私たち日本人にとって、決して他人事ではない問題ではないだろうか。

先の大戦を生きた人々がごくわずかになった今、戦後生まれの日本人が、戦中そして敗戦直後の困難な時代を生きた人々から、何を受け継ぎ、何を語り継いでいかなければならないのかを、本書を読んで知ることができるのかもしれない、そんなふうに、若干安易に考えて、読み進めた。

恥ずかしながら、私は自国日本で戦争の終末期に大都市を殲滅させる絨毯爆撃が行われたことは知っていても、同じくドイツの都市がそれを受けて壊滅的に破壊されたことは知らなかった。

しかしこの本を読んで、ドイツの大都市も殲滅、といえるほどの破壊を受けたことを初めて知った。当然、ドイツの一般市民も多くの命を失った。

しかし、この本の主旨は、その破壊のいきさつや、破壊そのものの意味を問うことにあるのではなく、ましてや、自国の被害の大きさを語ることで、ドイツが第二次世界大戦で行った、他国や他民族への圧倒的な暴力を正当化するものではない。

むしろそのような不当な正当化や敗戦による恥の意識が、自国の戦争被害についての事実や、一般国民が受けた戦争についての体験と記憶が半ば意図的に忘却された要因ではないか、と著者は指摘している。


この戦争で一般のドイツ人、そしてジャーナリストや文学者などの知識人が、自らの身に起こったことをどのように感じ、それをどのような形で後世に伝えようとしたのか──著者がこの本の中で追究している、その記録と記憶のあり方の根底にあるべきものは何か。

それは、知識人であろうと一般国民であろうと、戦争がもたらした破壊と暴力の正確な記録であり、その心身に刻まれた暴力の痕跡、いつまでも残り続ける生々しい痛みの記憶なのだという。

たとえば、「夜鳥の眼で」というアメリー論の中で、ファシズムによってまさに言語を絶する拷問を受けながらも、最後まで抵抗を貫いたアメリーの残した作品から、その記録の切実さについて語っている。

 究極のところ重要なのは、テロルの原因をもっともらしく解明することで
 あるよりは、締めだされ、迫害され、殺される犠牲者にされるというのが
 いかなることかを理解することだと、しぶとく指摘したのである。
 (本文p136)

『空襲と文学』

アメリーは自身に加えられた拷問の記憶を、「言語による伝達能力ぎりぎりのきわで書いている」が、それはむしろ「同情や自己憐憫」も禁じた<控えめに語る>という「逆説的な」言語形式だった。

しかもそれは彼が選んだ、というより、そうせざるを得ないほど、彼に加えられた暴力が、呼び覚ますことによって再び生々しい苦痛を甦らせる記憶だった、ということに他ならない。

ゼーバルトがいうように、「犠牲者になった者は、いつまでも犠牲者にとどまりつづける」ということだ。
決して比喩的な意味でも、論理的な意味でもなく、事実として、暴力の記憶というものは、時間によっても書くことによっても、解放されることなく、それを受けた側の心身に留まり続け、苛み続けるということだ。

自身の暴力の記憶とそれを記録することの葛藤の中で生きたアメリーも、最後は自死に至ってしまった。

あるいはヴァイス論の「苛まれた心」では、ヴァイスが、暴力への「凄まじい恐怖」と、それをもたらす「圧倒的ななにかの権力」の本質を見極めようとした表現する姿を描いている。
ヴァイスは先天的な想像力によって「たんなる同情を超えた苦痛への共感」を底に持ち、画家として痛みの記憶を描き続ける。

また言語化への懐疑を抱きつつも、作家として作品を残すことによって、暴力に抵抗し続け、その本質を追究し、それを記憶にとどめることを決意した人間だった。

ゼーバルトがヴァイス論の中で指摘していることで注目されるのは、暴力というものが、組織化され戦争のような圧倒的な力になるとき、それは最初はある限られた人間の情動的な部分に源流をもっていたとしても、やがて「目的ないし価値によって正当化され」、さらにそれは<啓蒙される>ことによって広がり、やがてシステムとして構築されるということだ。

<奇跡の経済復興>──この言葉は、戦後ドイツの驚異的なスピードでの物質的な立て直しの様相を表現したゼーバルトの言葉であり、多くの国民にとっての共通認識でもあったのだが、その要因についてゼーバルトはこのような言葉で指摘している。

 <奇跡の経済復興>の前提になったのは、マーシャルプランによる巨額の
 投資や、冷戦の勃発や、老朽化した工場の破壊(これは戦時中に大挙して
 飛来した爆撃機が腕ずくでやってくれた)のみではなかった。
 
 表だって言われることはあまりないが、全体主義でつちかった唯々諾々の
 勤労精神、逼迫した経済下での臨機応変の業務遂行能力、ナチ体制でのい
 わゆる<外国人労働力>投入の経験、そして歴史の重荷の除去(中略)
 (この喪失を嘆く人々はじつはごくわずかだった)──が前提にあったの
 である。

 しかし奇跡の経済復興には、これら多少とも歴然とした要因に加えて、
 純粋に精神的な次元の触媒があった。
 それこそが、ひた隠しにされた秘密、すなわち自分たちの国家の礎には
 累々たる屍が塗り込められているという秘密を水源とする、いまなお涸れ
 ることのない心理的なエネルギーの流れだったのである。(本文p19)

『空想と文学』

たしかに、喪ったものをいつまでも嘆き続けていても仕方がない、それよりも出来るだけ早く復興に着手したほうが文字通り建設的であり、前向きな心性だ、ということも一つの有効性の高い考え方ではある。

それでもゼーバルトは、その「前向きさ」が、「ドイツ全土が陥っていた物心両面にわたる壊滅の実態」を「自国の恥」として、また他国に対する罪悪感とともに、意図的に忘却しようとすることは、後世に戦争というものがいかに「理解を絶する体験」であり、「想像を超えた現実」であったのか、その<現実の感触>を伝えられなくなるのではないかと疑義を呈している。

戦争の体験というものは、その主体にとっては、耐えがたい記憶であり、それを呼び起こすこと、そのことが新たな傷となって、心身を苛むことはアメリーの例をみても想像に難くない。

しかし体験していない人間にとっては、その<現実の感触>を知ることが、たとえ限りなく不可能であり、概念としてではなく生理的に耐えがたい記憶だとしても、体験した人間から知るしか手立てが無いのもまた事実である。

そして、あらゆる困難を抱えながら、それでも自身の戦争の記憶を伝えてくれた人の言葉に対して、多くの後人は(私自身も含めて)、「美しい話」「感動の話」として語ってしまう誘惑につねにかられてしまう。

そこにはゼーバルトがこの本の中で指摘しているように、<忘却への誘惑>
あるいは権力への<転移のプロセス>が存在するとは言えないだろうか。

戦禍の中でも絆を失わない家族の姿、悲しみを押し殺して戦死した家族を弔う姿を美しく描いた作品、愛する人のため、愛する故郷、国のため、命を捧げる若者たちの姿をヒロイックに描いたり、そういうことをテーマとした作品は、本当の戦争の姿を、十分に描いているといえるのだろうか。

事実としての戦争の公正な記録と、耐えがたい痛みの記憶を言葉にして残してくれた人の言葉を、経験していない人間が伝え続けるより外に、もうすべきことは残っていないのかもしれない。

この本を読んで、あらためて思った。
本当の苦しみをなめた人たち、本当の悲しみを知った人たちは、死んだ人も生き残った人も語ることができず、また多くを語れないまま、消えていくしかなかったということだ。

戦争について、人間が行う暴力、残虐性について、弱さについて、そして悪について──それを未だ体験していないからといって、向き合うことが免除されることはないのだということを、本書は静かに語り続けている。

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