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★『アウステルリッツ』~言葉は意識を越えて伝わっていく

この本との出会いも偶然以外のなにものでもありませんでした。

そんなに大きくない、スーパーの2Fにあった書店の、ほとんどワンコーナーでしかない、外国文学の書棚にひっそりと、この本はありました。

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『アウステルリッツ』

        『アウステルリッツ』W.G.ゼーバルト・著

平積みのベストセラーではなかったので、『アウステルリッツ』という奇妙なカタカナの文字だけの標題に惹かれて、ふと手に取ったこの本は、今まで私が読んだ戦争についての本の中でも、最もリアルな感情を抱くことになった一冊でした。

人は一冊の本を読むとき、無意識のうちに、あらかじめある枠組みを意識して、その枠組みの中で、その本の内容を意識し、感じ、理解するものだと思います。たとえば、同じテーマで書かれたものでも、フィクションとノンフィクションでは、その内容に対する感じ方、受け取り方、結論さえもが変わってきます。

どちらが良いということではなく、そのテーマにとって、どのような形式がふさわしいかということは、作者自身の筆力と好みなど、その内容をいかに
効果的に、的確に表現できるのかによって、(あるいは本能的に)選択されるものだと思います。

そして多くの場合読者は、その本を手に取った時点で、その本の、そういう外側の枠組みを知り、無意識の場合も含めて了解した上で、読む、という行為に入っていくのです。

ところが、この『アウステルリッツ』という本は読者のそんな外側からのアプローチを拒むかのような、小説とも、ノンフィクションとも、歴史書とも学術書とも…分類しがたい、いわば既存の一定の型を持たない作品です。

まるで、そのような型による分類がすべて無効であるような、人間の感情や知識そのものに直に触れつづけているような、そんな文体と内容なのです。

それでも無理やりこの本の形式的な分類というところを定義するとしたら、個人的な感想としては、形式を持たない「詩」のような作品、という印象です。ずいぶんな形容矛盾ですが…。

それはある意味、ある時代を現実に生きた人間の内面を、その思想や価値観という、ある形を与えられた精神だけでなく、感情や感覚、さらには意識された部分だけでなく、無意識の領域まで含めた、明確な言葉によって形にし難い内面をも、できるだけ忠実に描こうとしている、ともいえるでしょう。

現実の人間は「現在」という時間軸にピン留めされているように思われますが、実際には、過去を思い出し、未来を想像しながら、「今ここ」だけではなく「ここではない何処か」「今ではない何時か」の時空を漂っているのですから…。


さて、この『アウステルリッツ』が描いている作品世界、それはある戦争と、その戦争を生きたある一人の子どもだった「アウステルリッツ」という名前の建築史家の物語です。

物語の語り手である「私」は、彼の話を聞き、彼の人生を辿る旅の伴走者としての視点から、時代に翻弄されたアウステルリッツの人生を辿っていきます。

アウステルリッツそのものは、実在した一人の人間というより、その時代を実際に生きた人々の様々な経験、実話を基に形作られた、いわば時代を象徴する人物のようです。そのアウステルリッツは、厳しい戦争の時代、まだ物心のつかない子ども時代に、彼を何とか生き延びさせようとした母親によって、列車で故郷を離れ、遠い異国の牧師の家で育ちます。

彼は自分が、養父となった牧師夫婦の本当の子どもでないことは分かっていたのですが、自分の生みの親のことや、養子に出される前の記憶は、幼かったこともあり、定かではありません。したがって、アウステルリッツ(この名前も、彼が知るのはずっと後になってのことです)は、

子どもの時分からずっと、私は自分という人間がほんとうは何者か、知ら  なかったのです。(本文p43)
私はなにかしごくわかりきったこと、明らかなことが、自分から隠されているという想いがどうしても拭えなかった。(本文p53)

『アウステルリッツ』

と、心の中にある空洞を持ち続けて、生きていくことになった人間です。そして成年になって、わずかな手がかりと、自分自身のある感情に導かれて、自身が「何者か」を探し続けるのです。その感情とは「駅」という場所についての彼の心に生まれるある感情です。

駅は幸福な場所とも不幸な場所とも感じられて、そこにいると時々とてつ   もなく危うい、わけのわからない感情の波に引き攫われてしまうことがあった(本文p33)

『アウステルリッツ』

彼は自分の中に生まれるこの「駅」に対する強い感情の波を手掛かりに、自らの出自に迫っていきます。「駅」は彼にとって「失われた歩みの間」であり、自分の出自を知らぬままに生きるこの世界は、「まやかしの間違った世界」といえるでしょう。やがてアウステルリッツは生みの両親について、自分がなぜ彼らと離れてしまったのか、そしてそんな忘れられた遠い昔の真実を知ることになります。

作者がこの作品の中で描こうとしたもの、それは戦争という事象そのものの事実とその是非、というより、そんな苦難の時代を生きた人間の、本当の人生であり、内面の在り方なのだと思います。戦争を知らない私が戦争を知ろうとするとき、そこで起こった悲惨で不条理な出来事を、一つの歴史的な事実としては理解することはできます。

しかし、その時代を現実に生きた人、一人一人が、実際にどんな運命を生きざるを得なかったのか、そして、そのとき、その一人一人がどんなふうに
感じていたのか、さらに、その後の人生をどんな想いを抱いて、生き続けなければならなかったか、そのことを自らのこととして想像することは、かなり難しいことだと思います。

歴史的な事実を知り、そこで生きた人の真実を知るためには、記号的・形式的な事実を記憶することによってではなく、その時代の運命を生きた一人一人の人間の内面に起こったことを、五感をフルに働かせてできるだけリアルに感じ取ることだということを、この作品は教えてくれるのです。

『アウステルリッツ』は、戦中・戦後を生きた一人の人間の運命と、それを担わされて生き続けた人の内面の在り方を、戦争を知らない私に、知識としてではなく、その<肌ざわり>をリアルに伝えてくれる物語です。この作品の最初の方に、この物語の在り方を表わす言葉が記されています。

われわれが記憶しておけるものがいかに僅かであることか、ひとつ生命が消え去るたびにいかに多くのものが忘れ去られていくことか、それ自体は思い起こす力をもたない無数の場所と事物に付着していた種々の歴史が、誰の耳にも入らず、どんな記録にも残されず、語り継がれてもいないがゆえに、世界がいわば自動的に空になってしまうかを想えば、闇はいっそう濃くなるばかりなのだ。(本文p23)

『アウステルリッツ』

戦争だけでなく、すべての歴史的事実は、その当事者たちの死によって、多くの真実が同時に失われていく運命にあります。それでも、この物語のように、その歴史の真実に踏みとどまろうとする言葉が、その時を越えて、受け継がれていく可能性を示してくれるのです。

こうした感情が起こるのは、きまって、現在というより過去に属している場所にたたずんでいたときでした。たとえば街を彷徨っているうち、何十年間少しの変化もないひっそりとした裏庭などをのぞきこむと、忘れ去られた
事物のもつ重力場の中で時間がとてつもなく緩やかに流れていることが、ほとんど肌身で感じられるのです。すると、私たちの生のあらゆる瞬間がただひとつの空間に凝集しているかのような感覚をおぼえる。まるで、未来の出来事もすでにそこに存在していて、私たちが到着するのを待っているかのようなのです、(中略)私たちは過去に向かっても、つまりすでに過ぎ去りあらかた消え去ったものに対しても、約束をすることがあるのだとは考えられないでしょうか? そしていわば時を超えて、自分たちと何らかの繋がりをもつ場所や人々を訪れなければならないのだとは?」(本文p245~246)

『アウステルリッツ』

過去の人間の歴史の真実を記憶し続けるための手がかりや方法を、この物語それ自体が、伝え続ける役割を担っているように思えます。

最後に、訳者のあとがきを読んで、私がこの本を思わず手にした理由が分かって愕然としました。この本の題名、「アウステルリッツ」は、聞きなれない言葉、と私は最初に書いたけれど、それは、「アウシュビッツ」を連想させる言葉だったからだと、この本を最後まで読んで、確信させられました。

私は無意識のうちに、アウシュビッツを連想して思わずこの本を手に取ったのです。

それは特に私が歴史的な出来事としての、アウシュビッツに興味を持っていたからではなく、好き嫌いや個人的な興味を超えて、自分のどこかに刻んでおかなければならない記憶の一つだと無意識に感じていたからだと思います。

そしてそれこそが、この本の作者ゼーバルトが、密かに仕掛けた意図なのだと分かりました。それでも作者もまさか、極東の一般の中年女性が、この本を手に取るとは思わなかったでしょうが…。

言葉はいつも、それを生み出す人間の意識を越え、それを受け取る人間の無意識のうちに、伝え・伝わっていくものなのかもしれません。

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