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祈りについて考えてみた

ごきげんよう

雨の大阪、と書くと続く言葉が浮かび、往年の歌手の歌が流れる


大難が小難へ
小難が無難へ

とは、よく聞く、目にする言葉ですが
ここには祈りが存在するように感じます

祈りの科学
と、調べるといろんな書籍もヒットしますが
祈りの研究もいろいろあるようですね

わたしの実家はクリスチャンだったので祈りは常に身近にありました

食事の前に祈り
朝に夕に祈る

感謝だったり、御免なさいだったり、助けてくださいだったり

ただそれは習慣として唱えた呪文のようでもあり
祈りの本質などは全く理解していなかった

神に祈る

「神様お願い」的な感じではなく、対話だったようにも感じる
出来事に対して、わたしはこう思うんだ!!とぶつけていたようにも思う

よくある過干渉な親元で育ち
同年代の友人たちの自由さが羨ましかった
よく壊れなかったと思うし
道を外すことも反抗期もなく

人並みにまっすぐに生きてこれたのは祈りという対話があったからじゃないだろうか?と、今まさにこのnoteを書きながら気づいた。


そして神とは何か?

幼少期は主の祈りで「天のお父様」と唱えていた。
大人たちは「天に在します我らの父よ」と

父であり始まりであり根源である

根源・・・心理やスピリチュアルなどいろいろな学びの中で
私たちは結局根っこは繋がっている

皆同じ根源で・・・

ということは神とも繋がっているというか
わたしも神?と捉えられるとはよく聞聞きました
いえ、言い切られていることがほとんどでした。

いくらわたしから問いかけても神は何も答えてはくれない
けれど伝わっていると理解していたあの頃
きちんと自分と対話できていたのかもしれない


大人になりいろんなセラピーを知り
退行療法なども興味のままに受けたりしたけれど
インナーチャイルドが泣いているはおきまりの言葉だけどしっくりこなかった


ウニヒピリと話ししていた過去のわたしには、なかなかな環境の中それがあったからいろんなことも乗り越えてこられたのだろう
(ウニヒピリはホ・オポノポノで語られる潜在意識であったり、インナーチャイルドとして扱われていることが多い)


祈りは自分の中の根源と繋がり対話すること


根源では皆繋がっているから同じことに対して祈る人が多いほどそのエネルギーは莫大なものへ
という感じでしょうか。

そんなことを感じた朝でした。

今日もごきげんに参りましょう


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