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楽園で絶える血

ジャンガリアンハムスターの「ハム公」(たぶんメス)を飼い始めて1か月が過ぎた。ハム公は大掃除の際にうっかり番ってしまったハムスターから生まれた子で、里親募集サイトに出されてうちに迎え入れられた。間違って生まれてきたが、望まれて貰われた。不思議な偶然。

縄張り意識の強いジャンガリアンハムスターは単独飼育が基本とされる。ハム公も単独飼育だ。この先、増やすつもりはない。ハム公の子孫がこの世に生まれることはない。ここで血は途絶える。ペットというのは基本的には命を代々繋いでいくことを目的にはしていない。飼い主の手に負える範囲で適切な飼育環境を与えながら世話や育成、コミュニケーションを楽しむものだ。

飼育環境。ペットにとって適切な飼育環境というのは人間が思い描く「楽園」、天国や極楽浄土に近い理想郷だ。食べ物も水も常に不足なく供給され、緊張感のある生命の奪い合いはなく、清潔で、快適だ。野生下よりずっと長生きすることも出来る。しかしここではその生命の多くが一代で終わってしまう。

これは少子高齢化が進む先進国の都市生活とよく似ている。我々の生活は発達したテクノロジーによって快適で、物に満たされていて、平和だ。しかし持続しない未来の可能性に徐々に脅かされ始めている。先日、理想郷とは長生き出来るが生命力は失われる場所なのではないかという荒唐無稽な記事を書いたが、ペットの飼育環境は都市生活のアナロジーとしてピタリと来る。

我々人類は時代を下るごとに文明を発展させて現代に至っているが、その過程で生物としての「自己家畜化」が進んでいるという見方がある。共同体の秩序を乱す野蛮な乱暴者をその他大勢で協力して処刑し、そうして世代交代を繰り返すことで、まるで野生種が家畜化されていくかのようにヒトの攻撃性が淘汰され、従順な性質が強化されていく…という現象を指摘した説だ。我々は自分で自分をペットのように改変しているのかもしれない。

ペットは自らの生の主導権を持たない。生かされている。危険には晒されないが、どう生きたらいいのかという指針は失われている。我々がもしペットのような存在だとするなら、自分の生の主導権を握るためには何らかの形で「血」を繋ぐことが必要になるのだろう。子を残す、あるいは文化や物を残す、技術を継承する。しかし、子を成すことは強制されないし、文化や物は飽和しそうなほど充実しているし、技術はテクノロジーに代替されていく。世界はますます居心地の良い楽園になっていく。ここをわざわざ抜け出すなんて、殆どの人間にとって非常に困難なことだろう。


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