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作品ちゃんはお嫁に行く

 作品が売れて作者の手から離れることを「お嫁に行く」と言う表現がある。

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突然ついた「いいね」から


 決して珍しくもない言い回しなのだが「なぜこういう表現が出てくるのだろう?」とか「息子じゃなくて娘なのはなぜ?」とか、かねてから不思議に思うところがあった。

 ということを過去にもなにげなくツイートしたことがあるのだが、だいぶ前のものなのに相互フォローでもないアカウントから脈絡もなく「いいね」がついた。

 いいねをつけたのは、反差別系の趣旨をプロフィールに掲げた個人アカウントだった。

 品のない行為かもしれないが気になったので「いいね」欄を覗いたところ、どうやらキーワード検索で「作品」を「お嫁」にいかせる関連のものをサルベージして、いいねをつけていたようだった。また、ご本人は「こういう表現ではなく、もっと良い言い方が作れないだろうか」といった少なからず問題意識を持つような旨のこともツイートしていた。

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「お嫁に行く」をどう解釈する?


 この「お嫁」表現に関して、ツイッターを探すだけでも色々な解釈が見られた。主に以下の3つに分類出来るだろうか。

1.「売れた」というあけすけな雰囲気を柔らかくするための表現である

2.自分の一部だったり「我が子」「家族」という感覚があり、大切にしてもらいたい

3.人身売買や女性差別のような視点を含み、問題がある

 比喩表現の解釈なので、人それぞれの答えがあるかもしれない。どれもなるほどと思わせる部分がある。

 まず1。「売れた」という表現に抵抗がある作家は少なくないだろうと思う。ちゃんと稼ぎを出すことは活動を継続するために絶対に必要なのだが、金銭の表現がダイレクトに出ることは作品のイメージや世界観を壊しかねない。慎重になった結果としてこの表現を選ぶ人もいるだろう。

 次に2。完成させるまでの苦悩を「産みの苦しみ」と言うこともあるように、作品制作自体を出産に例えて表現することがある。私は男なので出産は経験しようがないのだが、工程として似ているのは理解出来る。また、我が子に擬人化することでより大切にしたい/してもらいたいという気持ちで丁寧に接することへの動機付けともなるのだと思う。

 最後に3。古い価値観的なものに由来する問題意識、そう解釈可能ではあるが、女性差別的な文脈からこれはちょっと外れるのではないかと個人的には思う。

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「大切にされる物」が女子供と化す


 前述の3についてやや否定的であることは2の内容と繋がっている。お嫁に行くという表現が作品の売買において基本的に肯定的な意味合いとして使われている点と、冒頭でも触れた「なぜ嫁=娘or妻=女なのか?婿や息子=男でないのか?」という点だ。

 嫁=女性は貰われていくもの=作品が人の手に渡る=女性をモノと見做し杜撰に扱っていた...みたいな解釈自体は可能だ。実際に女性が社会的な制約によって不自由を強いられている側面があるということは1つの事実だが、これはあくまで一面だ。この負の側面(人→物)ばかりを強調すると、実際の作家や買い手の気持ちと符合しない。

 この表現を用いる作家や買い手は基本的に作品を物から人へ擬人化し、大切に思っているからだ。擬人化するならより「大切にされる存在」の方が良い。つまり「お嫁」という表現は中で守られる女/子供(妻/娘)という女性に課せられた制約の正の側面(物→人)で語られる方が適切だ。ここに負の側面を持ち込んでしまうと、「お嫁に行くという表現を使う人達は作品を大切にしていない」と、解釈不一致が発生する?

 それと、これが婿や息子=男に置き換えられない点。まず男性的な概念が「大切にされる」イメージとは 結びつきにくいように思う。社会に求められている役割という意味で言うなら「嫁入り」の反対は「戦地へ赴く」「働く」の方が近い。婿の概念は嫁の対称物として成立しない。

 これは自ら戦って成果を得る(正)or 使い潰されて死ぬ(負)ポジションだ。物に例えるなら「鍛える」とか「手入れをする」とかになるだろうか。刀剣などになら使えそうではある。(男女論になると風呂敷が広がりすぎてしまうのでひとまずこの辺りに)

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個人的にはコレ苦手なのだが...


 最後に、詳細なデータなどはない個人的観測なのだが、この表現を使うのは女性が多いという点も外すことができない。女性の方がすんなりとこの擬人化をイメージし実行できるような印象がある。「産み出す(女性的)」か「作り出す(男性的)」かという感性の違いをそれぞれの作家が持っているのではなかろうか。

 ちなみに私自身はこの表現は心理的な距離が近すぎる感じが苦手だ。作者と作品は一体であるということを作っていて強く感じるからこそ離しておきたい。作品を物として独立させておきたい。なので「お嫁に行く」を使ってはおらず、使おうとも思わない。しかし少なくない人が使うこと自体は自然な姿なのだと思う。

 心の距離が近すぎること、大切にしたいと思う気持ちが強すぎることというのにどうも最後の最後で抵抗がある。壁を作りたくなる。気恥ずかしいとも少し違う、癒着して離れない母子を想起させる不安感というか。この辺りはまたいつか別記事を書こうと思う。

 しかし自身の作風的には「お嫁に行きました♪大切にしてください(T_T)/」と言うくらい作品とグロテスクに一体化してしまった方が、そこも含めて完成度が上がるような気がしてならない。


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