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横浜トリエンナーレの思い出から、今

横浜トリエンナーレに関する投稿がXのTLに流れてきた。横浜トリエンナーレは2001年に始まり、3年おきに開催されてきている現代アートの大きな祭典だ。
第8回となる今年は左派的な政治思想の色が非常に濃いことで一部で話題になっている。

自分が横浜トリエンナーレに行ったのは16年も前のことになる。2008年の第3回。街おこしのアートイベントが活気づき、あちこちに立ち上がっていた時期だ。当時は学生だった。

その前の第2回横浜トリエンナーレにはビルに張り付く巨大バッタなどのかなりキャッチーな作品が出て、話題になっていた。自分がいつも室内で描いているような絵よりも遥かにスケールが大きく、時代を先行く表現に触れられる、そんなワクワクを期待して行ったのだった。

しかし、残念ながらその期待は外れてしまった。第3回の展示はそれ以前と比べてかなりコンセプチュアルで、難解で、退屈なものだった。

作品そのものと同じか、場合によってはそれ以上に作品の成り立ちの前提である「文脈」が大事だというのはもはやアート界における常識であるので、楽しめなかった一因は浅学な自分自身にあったというのは確かだ。

一方で、その時の爪弾きになった感覚というのは心に強く残ったのだった。もともと現代アートは難解なイメージが付き物ではあるが、これだけ広く開かれたイベントにはそれを払拭する意図が少なからずあるはずで、それにしては来場者を選ぶフィルターが強すぎるんじゃないかと思った。

それからしばらくして、所属していた大学のプロジェクトでとある地域の町おこしアートイベントに参加することになった。

「芸術は万人に開かれるべき」といった理念が、この手の催しの主要なコンセプトの1つとしてある。閉鎖的になりがちなアート界をもっとオープンに、風通しを良くして行こうという前向きな試みだ。

コネクションの影響力が強い美術公募団体のあり方や、権威主義的な一面を持つアート界に対するアンチテーゼ、反発、反省など、さまざまな思いが入り混じった挑戦でもあったのだろうと思う。

とはいえ、そのオープンな理念に対して内向きに終始してしまう展示の空気に自分はどこかしらけてしまって、見るのも出すのもほとんどそれっきりになった。

おそらく同じような気持ちで去った人もいただろうと思う。それでも腐らずに留まって続けた人もいるだろう。新しい風を吹き込もうとした結果はどうだったのか。

第8回となる今回のトリエンナーレの数々のレポートを見る限り、会場は開けているのに内容は閉じているという形は全く変わっていないように見えた。来場者を弾くフィルターが、第3回のような「読み解きの難解さ」から、第8回は「特定の政治思想」に移行しているだけだ。

結局、いいか悪いかはさておき、自分含めこれをつまらないと思う人がアートに求めているのは、エンタメ性や、息を呑むような職人的造形美なのだろう。トリエンナーレにはそういう感動が欠けている。

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