認知が歪みすぎの話

 自分が関わると物事を台無しにする気がします。実際にはそんなことなくても、なんだかそんな気がするんです。
 あるいは、身の回りで悪いことが起きると、自分のせいでは?と思ってしまいます。実際にはそんなことなくても、なんだかそんな気がするんです。
 この感じ、わかりますかね。認知の歪みというやつです。
 長い付き合いですが、奴の暴走はそれだけに留まらず、外は怖いことだらけだし、他人は恐ろしい生き物だし、何をしても他人に振り回されるし、何もしなくてもやっぱり振り回されるし、善意は悪意に打ちのめされるし、弱い自分に居場所はない。
 僕にはこの世がそんな感じに見えていて、誇張なしに、それこそ歯を食いしばって日々をやり過ごしてきたと自負していますが、比喩ではなく物理的に食いしばっていたので、いきなり奥歯が欠けたことがあります。本当なんです。

 そんな有様なので、誰かを頼ることは考えただけで変な汗が出るし、他人を巻き込んで物事を起こしたりできるはずもなく、何でも自分だけでやろうとするので結局全てが中途半端になりがちです。
 しかし人間嫌いというと言い過ぎで、信用できると思っている人はいるので、人間不信というのもしっくりこない。あまり他人に期待していないという程度が妥当なところでしょうか。

 他人に期待しないというのは、たとえば自分に対して良くしてくれる人がいたとして、なぜそうしてくれるのか分からないという形で現れることがあります。なぜなら他人が自分に対して好感を持つと期待していないからです。さらに踏み込むと、自分自身に好かれる要素を見出せないとも言えます。
 この人が親しくしてくれるのには何か理由があって、自分の行動や言葉一つで失望させかねない、だから下手なことはできないという不安に繋がっていきます。
 そのため、無償の善意を受け取ることにはかなりの慎重さを要し、逆に理由がはっきりしている、たとえば役所の窓口や病院の先生から仕事として向けられる親切さ、丁寧さの方がむしろ安心できて、そのサービスに身を委ねることができるのです。歪すぎる。

 とはいえ、今自分の周囲にいる人達を全然信用してないかというとそんなことはなくて、むしろ良い人達に依存しないように気をつけているぐらいです。
 自分が彼らと仲良くあり続けたいと思うのはその人徳のなせる業であって、そこに理屈はないと思います。他人から頼られるのだって、たまにならまあ悪い気はしないものじゃないでしょうか。
 自分が同じように理屈抜きの善意や親愛に値すると信じられるようになるには、まだ時間がかかりそうです。

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