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#03 多久古窯と李参平

日本の磁器の発祥は、有田町東部の泉山磁石鉱の発見が始まりと言われています。今回#03では、初代が有田に入る前の話

多久家に身を寄せる

1598年、鍋島直茂が帰陣の際 一緒に日本へ渡ってきた初代は佐賀城下に住み、日本人へ帰化することになりました。当時の一般人は「××に住む〇〇さん」という呼び名だけで「姓」を名乗ることは許されていませんでしたが、初代は当主を道案内した功労者として「姓」を名乗ることを認められていました。その姓は、初代の故郷が忠清南道錦江の近しいところが出身地であるということから、姓を「金ヶ江(かながえ)」名を「三兵衛(さんべえ)」と定め、今日まで「金ヶ江三兵衛」の名を受け継いでいます。

当時 朝鮮半島から渡ってきた多くの職人たちは、九州各地の様々な場所でその技術を伝えていたといわれています。その頃 若輩だった初代は 佐賀城下で仕事を持たずにいました。その後、鍋島藩の老中 多久安順との面識があったことから、その身を多久領へ預けられることになりました。さらに幾月が過ぎたころ、多久安順が「故郷ではどのような仕事を?」と尋ねると初代は「陶器を作っていた」と応えました。

江戸時代初頭、大名・豪商を中心に「武士道精神を学ぶための茶の湯」を嗜む人が多くなり、茶会が催される季節や客人へのおもてなしを考えた「茶道」が流行していました。茶会のしつらえは 客人への最高の演出であり、そこで揃える道具を戦利品として所望するほどでした。

初代が陶器を作っていたと知ると、多久安順は早速試作を作るように依頼しました。初代は多久領内唐人古場にて窯を築き、自然の素材から生成した茶緑色の釉薬で茶碗や小皿を作りました。しかし、初代が目指した作風とは違ったものが出来たことから、新しい粘土(陶土)の層を探し山を歩きます。高麗谷、大山古窯と転々と窯を築くなかで、近隣の人々が手伝いに訪れ、各所でその技法が残されていきました。

※金ヶ江願書より要約







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