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#04 初代 佐賀領を歩く…前。

初代李参平は多久領で陶磁器の試作を作り、領内の別の場所へ移動、そしてまたそこで作るという日々を送ります。一か所に留まらず唐人古場→高麗谷→大山古窯→保四郎窯と場所を移動を繰り返す…その原因は、窯周辺の土(素材)が白い器(磁器)に適さず、初代の思うように仕上がらなかったと考えられています。

現在の多久市郷土資料館には その当時に作られた陶片が保管・展示されていますが、唐津焼の陶器とも織部の陶器とも違う「雑器」と呼ばれるような歪んだ器がほとんどです。これは土の成分として、鉄分が多くガラスの元になる成分が極端に少ない、また耐熱性がない弱い土を使っていることから起こる現象です。今でこそ 同じ土を使ったとしてもその成分や性質を見極め、他産地の土や素材を混ぜることで陶土として使うことが出来ますが、その当時はそこまでの技術がなかったのだろうと推測できます。

一方このころの唐津では、すでに陶器の創業が始まっており、茶の道の道具として多くの陶工たちが製作、全国への流通も始まっていた頃でした。

困り果てた初代は、多久安順へ提案します。

「他の陶工たちが作っている窯へ行って、研究したい。そして、白い器を作るための土を探すために、多久領から外へ行く許可をもらいたい」

…江戸時代、自由に領を超えて出歩くには「通行手形」が必要であり、厳しい制限がかけられていました。公用・商用の旅、参詣や湯治などの遊行、女性は婚姻や奉公など、しっかりとした理由と後ろ盾 領主からの信頼が必要で、一般人の自由な往来は不可能だったと聞きます。
 
しかし、初代は「白い器を必ず作る」という約束を果たすため、多久安順と鍋島直茂より自由な往来と試焼の許可をもらい、多久領を出立することになりました。

さて、ここでよく聞く質問です。
初代李参平は、多久からどのようなルートを通って有田へ入ったのか?

次回はこの辺りを書きたいと思います。<続>

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