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「春の雪」から始まって…。

わたしはその「海」にのみ込まれてしまっていたのだろう。
のみ込まれてているどころか溺れてしまっていたのだろう。
それで「完結編」の終わりのほうになってやっとその「酔い」から目を覚ますことが出来た。
その「終わり方」があまりにも、あまりにも残酷なほどに「現実的」だったから。
それが「現実」だと痛いほど叩きつけられた。
目を覚ますにはいられない。

三島由紀夫の「豊饒の海」
私はその海にのみ込まれて溺れてしまっていた。
酔わずにはいられなかった。
これは「ほろ酔い」どころではなかったと思う。
深く深く酔いしれていたのだろう。
それが「文学」の魔力なのだろう。

友人もその最後が「あっけなすぎる」と言っていた。「ハッピーエンドではなく悲しくすぎる」と。
確かに私もそう思う。
でも何でもかんでもディズニーアニメのようにはいかない。そんな現実ばかりだろうし、そんな物語も溢れるほどある。
もちろん「ハッピーエンド」からは勇気も希望も夢さえももらうことができてそれは素敵なことだと思う。当然に。
でも人間って大人になるほど「儚い悲劇」からも色々と何かを感じ取り学んでいくようになるものだ。
でもその学んできたというものが「何か?」と聞かれると上手にうまく説明できないものなんだ。
大人になるほど「それでいいじゃないか」って一人で静かに納得している。
そんな心の有り様はなんだろう。それは「ほろ酔い」という言葉(そんな状態)に似ているかもしれない。

本を読むスピードはそんなに、はやいほうではないと思う。
だけど「豊饒の海」の四冊は瞬く間に私のなかを駆け抜けて行った。
本当にあっという間だった。
私を引き込み、溺れさせ、おまけに大いにたらしこみ深く酔わせ……。
それなのにそれがあっという間のことだった。
まったくなんという物語だっただろう。

「ほろ酔い」でちょうどいいかもしれない。
私はあまりにも深く酔いしれていたと思う。


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