『私とは何か』①鏡よ鏡、その鏡は他者
みなさまいかがお過ごしでしょうか。
今日はブログから丸々お引越し記事です。
冒頭の写真は、兵庫県立美術館の建物のガラスに映るリンゴです。
さて、『私とは何か』平野啓一郎著
人は一人では生きていけない、なぜなら他者の存在なしに自己を知ることはできないから。
他人は自分を写す鏡であり、他人の目を通して私たちは自分自身を見ることができる。
これからも何度も繰り返すであろうテーマ、相互関係と自己形成。論文を書くにあたって色々文献を読む中で共通して言及されていて、興味を抱いた。
古の賢人たちが一貫して述べていたのが、他者の存在が個人を作るという概念。微妙に異なるアプローチからの論説が私の中で繋がり、まとまっていった考えがなんとこの一冊に凝縮されていた。
最初にこの本読んでおけば、、とちょっと思ったけれど、あれこれ読んで考察する中で脳波が感じた喜びはかけがえのないものなので、良き。
そして今日も記憶の赴くまま、硯に向かいて。
自分の顔を見るには鏡が必要であるように、自分の性格を知るには他者の目が必要。
フーコーは『言葉と物』の第一章「侍女たち」で面白く表現している。
(念のために告白しておくと、私は第一章しか読んでいない。数ページ。)
侍女と言えば?
そう、ベラスケスの絵、ラス・メニーナス。
冒頭の絵です。wikipediaから拝借。
「鑑賞者は、画家にとっては可視的だが、自分にとっては決定的に不可視な像におきかえられてしまう、みずからの不可視性を見るわけだ。」(p.29)
絵の中のベラスケスの視線の先には、私たち鑑賞者がいる、画家は私たちを見ることができるが、私たちは自身の姿を見ることはできない。
最初は、フーコーさん訳分からんこと言うなあ、と思ったけれど意外に咀嚼できる。
間違いを恐れずに私の考えを言うと、実際にはベラスケスの視線の先には国王夫妻がいる。
夫妻は絵の中で鏡に写るという形で描かれている。
我々鑑賞者はその鏡にたどり着く前に、マルガリータちゃんや侍女さんたち、筆を握るベラスケスを見る。
それから鏡の中の国王夫妻を見るわけだが、彼らは構図的には鑑賞者の位置にいる。
あらゆる人の目、及び鏡を通して自らの姿を見るに至る、というプロセス。
国王よ、あなたは何もせずして国王なのではなく、あなたを国王と見なす人がいるから国王なんですよ、とでも言いたいのだろうか?
そんな深読みをしてみる私。
なんとなく、フーコーさんに同意できた気分になったところで、『私とは何か』のこの一文
「私たちの人格そのものが半分は他者のお陰」(p.101)
そして思い出すのは、『パーソナリティを科学する』や『遺伝子の不都合な真実』。
遺伝子が人格にもたらす影響は半分に留まり、残りの半分は環境要因、つまり友人等の対人関係等々であることが科学的に明らかにされているそう。
後者の副題に「すべての能力は遺伝である」と付けられているけれど、むしろ論調はこの否定系。
著者の安藤さんは、半分しか遺伝じゃないんだよ、とポジティブな捉え方をしていたように記憶している。
いかんせん読んでから月日が経過しているので、うろ覚えなのは悪しからず。
ポジティブな捉え方、と言ったのは、生まれながらにして決まってる訳じゃないから、いくらでも自分で変えられるんだよという意味で。
ちなみに、音楽的能力は9割近くが遺伝だそうです。
音楽一家の存在に納得すると同時に、私に全く音楽センスがないことに安堵。
しかし、血縁関係にある人に音楽に秀でた人がいないにもかかわらず、音楽的才能を開花させ活躍している人がいるのも事実。きっと真の努力家なのでしょう。
ネトルさん著『パーソナリティを科学する』は、人の性格を科学的に分析できる唯一の方法と言われる、ビックファイブについて。
非常に面白いので熱烈推薦。
巻末のチェックリストを用いれば自分を客観的に見られる。
サイコパスな人は、どういう性格の特徴があるのか、あるいはアーティストの強みと弱みは何なのか等。
そんなわけで、今日は『私とは何か』を読んだ私の脳内の思考の飛躍に終始したので、またこの書については次回。
では、ごきげんよう。
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