「生きてることに感謝しろ」について

人は嬉しくないことには感謝できない。手みやげに羊羹をもらっても、羊羹が苦手だったら、大好物だった時ほど喜べはしない。仕方のないことだ。

生きるのがつらいという人に「生きてることに感謝しろ」と言う人がいる。
感謝というのは強要するものでもされるものでもない。そして「感謝しなければ」と頭では分かっていても、心がそれについてこないことってある。「この羊羹は高価な店のものだから」、「重いのにわざわざ持ってきてくれたのだから」、「その気持ちがありがたいから」、「お金もかけてくれたのだから」と分かっているからお礼は言うにしても、美味しいと思え喜べと言われても無理な話だ。

「生きてることに感謝しろ」。

生きるのがつらいという言う人に、しばしば怒りや苛立ちをまとって投げられるこのフレーズが私は苦手だ。生きていることを嬉しいと思えない、苦しい、という個人的な主張を、社会的正論でねじ伏せようとしているように見えるし、それをされた側はどうなるかというと無論余計に抑圧される。
感謝しろというのが悪い訳ではないし、それは「生きるのがつらい」と呟く権利があるのと同じだけ保証されていることだ。つらいと言う人を見て一言いいたくなるのは、「本当は自分だってつらいけど、言わずに頑張っているのに」という苛立ちもあるかもしれないし、目の前の人とは逆に、心より先に身体のゲージがマイナスになるのを経験した人が周りにいたのかもしれない。それはその人にしか分からないことで、周りが知った口をきいたり非難することではない。

でも「生きてることに感謝しろ」と言ったところで、何も解決にもならないことは知っておくべきだと思う。感謝というのは頭ではなく心から湧いてくるものであって、心は誰にも指図できない。冒頭に述べたように人は嬉しくないことには喜べないし心からの感謝はできないので、「生きてることに感謝しろ」は「生きてることを嬉しい、楽しい感じろ」と言っているのと同じことだ。

楽しめ、とキレながら言われて、誰が楽しいだろうか。


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