15歳の春妊娠し、16歳の冬、出産しました。
こんにちは、ありさです!
実は1月5日、我が娘の長女が16歳になりました。
ツイッターにも書きましたが、長女が16歳になったということは、私もお母さん16年生なんです。
というわけで、今回は私の第一子となる長女の出産ヒストリーを書いていこうと思います。
せっかくなので出産ヒストリーだけでなく、1人目の旦那さんとの出会いからご覧ください。
・中学生だった私
大阪府東大阪市出身なのですが、母の再婚とともに私だけ当時鳥取県にあった祖母の家に引っ越して、更に当時付き合っていた彼(1人目の旦那になる人)と3人で暮らし始めました。
大阪に住んでいた時は、中学1年生から3年間難波にある大手劇団に所属していたので、休日はレッスンとオーディション三昧。平日の日中は学校と部活(ブラスバンド部)で部長を務め、夜は家庭教師に来てもらい勉強三昧。そしてたまにドラマの撮影など。
そう、遊ぶ暇なく自分の夢とやりたいことのために努力していたのです。
劇団に所属する時の入所金やレッスン費用なども、当時母が勤務していた内職の工場へ部活後やレッスンがない時に行き、仕事のお手伝いをしてそのお小遣いで通っていました。(仕事の速さを認められ、当時の高校生の平均時給よりもいただいていました。)
当時芸能以外でやりたかった事といえば、高校生で留学する事。
しかし母子家庭だったので、家計に負担がかからないようになんとしてでも公立校に行きたかった私。そんな私が選んだ高校は、大阪市内にある国際教養科のある公立高校。今はわからないが、当時高校の在学中にオーストラリア留学ができるシステムだった。
その高校へ行くためには、まだまだ偏差値が足りない!でも塾に通う時間がない!という事で、母に懇願して家庭教師に来てもらいことに。
その先生とすごく仲良くなり、みるみるテストの点も上がり、勉強の楽しさも実感していました。先生は京都大学でドイツ語を専攻していたので、全く関係のないドイツ語まで教えていただいていました。(当時から本当に語学が好きだったんですね笑)
私の人生順調すぎるーーー!とか能天気に思っていたんですが、その時は突然やってきました。
母の妊娠が発覚し、再婚が決まる。
・1人目の旦那との出会い
それまで超絶親子仲良くて反抗期なんてなかったのに、どうしようもなくなるまで私に何一つ相談してくれなかった母と喧嘩の日々が始まりました。
再婚相手の新しい父になる人とも全く折り合いがつかず、私は完全に反抗期に突入し、お互い頭を冷やすために私はここにいてはいけないと判断して、中学3年生の夏休みは全て祖母の家で過ごすことに。
その時に知り合って色々相談にのってもらっていたのが、祖母と同じ会社で働いていた1人目の旦那さんというわけです。(5歳年上)
夏休みも終わり、鳥取と大阪の遠距離が始まる。
・大阪から鳥取市の中学校に転校
鳥取の祖母の家から大阪へ戻り新学期を迎え、彼は車ですぐに会いにきてくれるような人でした。
遠距離も1ヶ月が過ぎようとしている頃、私は実家にいることが本当にストレスになり、10月には鳥取へ引っ越し、祖母と彼と3人で暮らし始めました。
もちろん家庭教師も辞め、鳥取から難波にある劇団に通うこともできなくなり、人生終わった〜と思っていました。(人生終わらせるの早いw)
大阪にいる時は、夢に向かって勉強も頑張っていて優等生で落ち着いた雰囲気で〜みたいなことを通知表に書かれていた人間でした。
ですが鳥取の中学校では一気に都会のギャル扱いw
まぁそりゃあスカート短くて、フルメイクで、茶髪だったらそうなりますよねw
故に、元々その学校では目立つ子たちのグループに目をつけられていました。笑
そして反抗期に拍車をかけるように、大阪ではまだ引退ではなかった部活も鳥取ではとっくに引退。更に当時好きだった勉強も大阪より鳥取の方が進んでいて、全くついていけなくなりました。
完全に終わった。
そんな気がした。
・夢を全て諦め、結婚に逃げる
全てを諦めた私は周りの友達が進路相談をする中、受験はしないの一点張り。担任になぜ?と聞かれても答えられなかったので、結婚するかもと言ったらめんどくさい問題になると思い、女優を目指すとずっと言って避けていました。それすらももう諦めていたのに。
この頃から彼には自分の気持ちを全て話していて、そんな情けない私を全て受け入れてくれていました。
・中学卒業後、バイト開始
なんとか卒業式まで乗り切り、特になんの思い出もなく涙も一滴も流さず中学卒業。
すぐに駅前にあるお好み焼き屋さんでのバイトを見つけ働き始める。
年老いた奥さんと息子さんで営んでいたこじんまりとしたお店で、たまに介護施設からかかってくる電話の年老いた旦那さんの声を聞いて奥さんが涙しているのを、今でも覚えています。
・妊娠発覚!つわりが酷すぎてバイト辞める
そんな温かいバイト先での勤務も2週間が過ぎようとしている頃、急に体調に異変が。
もうその時には避妊もすることはなくなっていて、なんなら結婚するなら子供欲しいねと言っていました。(若いな笑)
なのですぐに妊娠したんだなとわかり、妊娠検査薬で検査。案の定陽性で妊娠が確定しました。当時まだ15歳の春でした。
エコー写真を確認すると、一番古いのが2003年5月21日のもの。
まだ大きさが8mmしかない。
すぐに彼に報告すると、大喜びしてくれました。
バイト先にも、妊娠してつわりが酷いから辞めさせてほしいというなんとも身勝手な報告に「やっぱりね〜そうだと思ったよ!無理しないように頑張って産むんだよ!」と最後まで温かいバイト先でした。働いた期間は2週間と短かったけど今だに感謝しています。
・祖母と母の反応
一緒に住んでいた祖母に報告すると、不安は見せつつも幼少期から今まで私の面倒を見ていてくれたこともあり、初ひ孫ができる!と喜んでくれました。当時祖母は確か58歳。若いなぁ。
母にも報告をしたら快く応援してくれました。というのも、母が再婚相手との間にできた私の妹を4月に出産した翌月に、私の妊娠が発覚したから。
そこからまぁ本当にいろんな問題もありましたが、私はたまごクラブという妊婦雑誌で妊娠出産の勉強をしながら、それまで自分のダイエットに関してしか興味のなかった栄養学をしっかりと勉強し始めました。
更にそれまでも普通にこなしていた家事や料理も、生粋の昭和生まれの祖母から家事と料理、女房としての心構えを叩き込まれ、まるで修行僧でした笑
めちゃくちゃ感謝しています。
6月13日、心音確認。
本来母子手帳は産院からそろそろもらいに行っても大丈夫ですよーと言われてから取りに行くものだと知らなくて、5月9日にはもうもらいに行っていたようですね笑
なんて気が早いんだ笑
・婚姻届と切迫流産と切迫早産と
私の誕生日7月24日の16歳の誕生日を待ち、無事に入籍。
法律ギリギリですね。笑
そして初めての専業主婦だったので加減がわからず無駄に体力もあったので、自分でも気が付かないうちに無理をしていたのと、年齢はもちろん子宮や骨盤もまだ未熟だったため切迫流産気味になり、自宅で完全安静の身に。
仕事も家事もできない寝たきりの自分。なんとも言えない気持ちになっていました。
昭和生まれの祖母はそんな私にも厳しかったですが、旦那は優しかった。
切迫早産を乗り越えた後も、切迫早産でまた自宅安静の日々。
今後父親になる男性の皆様、妊婦さんの乳首は触っちゃダメですよ。
乳首と子宮は繋がっているので、少しの刺激でも子宮収縮に繋がってしまい、流産や早産の原因になりますからね。
男性も妊婦の女性の体の変化を勉強して、奥さんの言ってることをできるだけ理解してあげてね。
(乳を揉むなら肩を揉んであげてくれ。頼んだよ!)
・産婦人科医と助産師さん
大きい病院ではなく、当時鳥取県では数少ない最新の分娩方法、ソフロロジー分娩で出産できる産院を選びました。
院内はとても綺麗で、先生はとてもおおらかな優しいおじいちゃん。助産師さんも若い人からベテラン風の人まで。
まだ若かくて何もわからなかった私は、迷惑をかけまいとできる限り妊娠出産の勉強をしたけど、先生や助産師さんはそんな私を見てもっと頼ってねと言ってくれていました。
よく考えると、初産なんて年齢関係なくわからないことだらけですよね!笑
そんな優しい人たちに見守られながら、最初は怖かった陣痛もしだいに楽しみになっていきました。
妊娠中はなぜか食欲がなく、臨月でもプラス6kgしか増えなかったので、もっと食べでグータラして!!!じゃないとお腹の子がなかなか大きくならないよ〜と言われていました。
私の想像していた妊婦生活は体重の増えすぎで怒られて・・・みたいな感じだったので真逆でした笑
人生で初めて太れない人の悩みがわかりました。どう頑張っても胃が圧迫されてそんなに食べられないし、グータラしてるつもりでも若くて代謝が良いからか全然体重が増えなくて本気で悩んでた。そして常に低血圧。一時期は貧血気味にも。
・待ちに待った陣痛
2004年1月3日から始まった微弱陣痛。まだ微弱だったからちょっと重めの生理痛くらいの痛さで、お正月休みに遊びに来ていた旦那の友人たちと買い物に出かけたりしていました。微弱と言っても、痛くなればその場でうずくまるほどの痛み。
でもそこで動いていた方が陣痛は進むと思い、ちゃんと陣痛が進むように運動がてらずっと動いていました。
少しづつ痛みが強くなったり弱くなったり、急に強くなったり。それがまる2日続きました。
旦那の友人たちが帰った翌日、1月5日の明け方から陣痛が強くなってきて、仕事初めだった旦那に休んでもらい産院に行くと、結構痛かったのにまだ3cmしか子宮口が開いていない。
しかし出産予定日の前日だったこともあり、そのまま入院となりました。
『陣痛は痛い時と痛くない時の間隔があるから、痛くない時にご飯を食べたりできる』
どの妊婦雑誌を見ても、そう書いてありました。
ですが、なんということでしょう。
私には間隔なんてものは皆無でしたw
あれほどまでに雑誌を嘘つき!と恨んだことはありませんw
痛くて呼吸が止まりそうになるのですが、私が呼吸を止めてしまえば赤ちゃんに酸素が行かなくなるんです。そう思うと必死だけど落ち着いて呼吸に集中できていました。その冷静さは助産師さんも驚くほど。
たまたま入院するタイミングが良かったのか、大部屋価格で完全個室の部屋に入院できることになったのですが、隣からは陣痛に耐える叫び声が廊下中に響いていました。
だんだん静かになり、今度は可愛い赤ちゃんの泣き声が。
よし、次は私の番だ。そう思いました。
先生は四六時中大変だなぁとか思いながら、陣痛に耐えていたのを思い出します。
もうそろそろ私死ぬのかな?と思うくらい意識が朦朧としてきた中、助産師さんの子宮口チェックの刺激による陣痛促進の影響で我に返る。
『お、そろそろ分娩室に移動しましょうか』
待ってましたーーーー!!!!!
それから自力で移動なんだけど、痛みで足が前に出ないんですよね。笑
手すりを離すとうずくまってしまう。だから痛みに耐えるために手すりをこれでもかというくらい握りしめていました。
・出産!ついに我が子とご対面
分娩台になんとか辿り着き、立ち会い出産の旦那の手を握りつぶし、腰を押せお茶をよこせとパシリに使いました。お腹の力を抜いて我が子に酸素を送るのに必死なんですもの。
ラマーズ法ではなくソフロロジーだったので深い深呼吸を続けるのですが、一緒にその呼吸法をしてくれていた旦那がまさかの過呼吸気味に。
おいおいしっかりしてくれよー!!と思いながら、苦しそうな旦那を心配する余裕すらなかった。後から感謝したけど、ごめんね笑
そんな中、助産師さんが一言。
『あなた強いわねぇ。こんなに静かな妊婦さんなかなかいないわよ』と励ましてくれました。
だって叫んだら赤ちゃんに十分な酸素が行かない可能性があるって何かに書いてたんだもん!!と心の中で叫びつつ必死に呼吸。
『今赤ちゃんの頭見えてきましたよ〜』
と助産師さんに言われたのですが、実は私、分娩台で脚を開いてる向こう側にあるステンレス製の器材入れにその状況が映り、自分の股に何が起きているのかずっと確認しながら耐えていたんですよね。
なので頭が見えてると言われた時に『はい!見えてます!!!』と答えましたw
その状況を助産師さんに伝えたら、とてつもなくビックリされました。
どうやらその様子を冷静に見ながら落ち着いて出産できる人はなかなかいないようです。
知らぬが仏ですね。笑
もしそれを知っていたら冷静でいられなかったかもしれません。
本格的な陣痛が始まってから12時間。
3回ほどいきみ、会陰切開をしてやっと我が子と対面。
かなり安産でした。
これでも安産だなんて、難産の人はもっと大変なんだ・・・と、人ごとではなかった。
23時31分、少し小さめの2532gで生まれました。
生まれた瞬間は赤紫色で産声も上げてくれず、一気に不安が襲いました。
もしかして仮死状態なのか?と不安に押しつぶされそうになりましたが、助産師さんが鼻に溜まった羊水を抜いてくれたりしていると、元気な産声が上がりました。
安心と同時に、今までに味わったことのない幸福感と感動に包まれ、もちろん号泣。人って感動するとあんなに泣くんですね。
そして陣痛の方が痛いし必死だから、会陰切開はマジで麻酔なしで切られても痛くないんだなと実感しました。女性ってすごい。
やっと痛みから解放されるー!!と思って気を抜いていたら、私は陣痛よりも出産してからの後陣痛の方が痛くて、会陰切開の縫われた傷も痛くて座れない、乳腺を開くためのベテラン助産師さんのおっぱいマッサージにも悶絶。さらにその後数ヶ月〜長くて約2年続く母乳での胸の痛みの方が辛かった。笑
出産ヒストリーを一通り思い出しながらこうやって文字に起こしてみると、本当に昨日のことのように思い出せます。
もうこんなに痛いなら産まない!と思いながら、あの感動をもう一度味わいたいと思うのはよく聞く話ですね(^^)
最後に長女の名前「星来」の由来ですが
「星のように世界中の人を魅了し、世界中の人と繋がりを持ち、未来が明るくなりますように。」
娘と娘に関わってくれる人が幸せになりますように。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
16年も経つとカラーのエコー写真が色褪せてしまうので、コピーなどを取っておくと良いかもしれません。。。
日々あげまん度をUPさせてアウトプットするべく頑張ります!!♡