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過去、親から与えられた固定観念から自由になりたい

幼少期の父の「余計なことすんな」を手放したい。
変に野心を持たず普通に生きるのがいいという意味。

え、でも私の普通はこれなんだけど…。
絵を習い、美大に行きたかったけど叶わず。
地元で銀行や公務員になり普通に結婚するのが安定しているし幸せだというすごい勘違い。刷り込み効果で、普通から外れることが怖くなっていた。

結局一般企業への就職を見据え4大に落ち着いた。美術の道は文学部に入ることで折り合いをつける。絵から文字で表現する道へ。

都会の大学に進学し、生活にもなれてきた頃。東京で働けるといいなーと言ったら、地元で就職しないなんて訳がわからない、派遣社員で結婚もできず行き遅れる叔母みたいになる(叔母に失礼…)と喚く。

挙げ句の果てに、そんなつもりなら学費はもう出さない、都会で一人暮らしする未婚の女はロクなのがいないとか、言いたい放題…。その時、増田さんの白書で、未婚の結婚適齢期女性が都市に半分いることが人口減少の課題の一つと唱えられていた時。
父からは娘がマイノリティに自ら足を踏み入れようとしている宇宙人に見えたかもしれないが、すでにマジョリティとなっていた。のかも。

というか、「父から見た」マイノリティの人たち(化粧男子、LGBT、仕事頑張る女性、結婚しない人、引きこもりの人、不登校の人、都会に出て帰ってこない長男長女もかな?笑)に対して、父は「あいつらはおかしい」と言っているのは私は非常に嫌悪感を抱いている。
そんな自分に罪悪感を抱いている自分も嫌だ。
反面教師なのか、自由に生きる人たちの憧れや尊敬の気持ちを人一倍持っていると自負している。
「あんな奴もいたけど気にすんな」と自分で自分に爽やかに声をかけられるようになりたい。

その時のことや、他の兄弟のことで、父が思った通りの結果にならなくて癇癪を起こす様子を見てもう嫌になってしまい、距離を置いている。期待通りにならない子供は罪なんでしょうか…?

兄弟には失礼な話だけど、兄弟の予期せぬトラブル(不登校、学校中退、引きこもりなど)は、父にとって、普通でないことをどれだけ受容し、愛するかの試練だったらいいなと、意地悪ながらに思っている。

それらの諸々を受け入れたかに見えたけど、弟の就職先にケチをつけ、弟と全然口聞かなくなったりしたのが数年前に起きたから、全然治ってないのね…と呆れるばかり。。

私自身はもう一人暮らしも10年経ち、今年から働いている会社で自分のやりたかったこと、勉強したかったことがやっとできるようになった。アートの世界へも没頭する余裕ができ、そろそろ油絵を買って絵を描くのを再開してみようかなと思ったり。

ただその幸せを受け入れて噛みしめればいいはずなのに、やはり、幼少期のこととか、今までの仕事環境の理不尽さを思い出してしまい、なんだか上手く進まない感覚もある。

どうすればこの状態を手放せるのかなーと悶々。

そんな私に贈る言葉は、もう怖いものなんてないから、これからは自分の時間を生きようよ!かなあ。

みんなはどう思うのかな?

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