食前酒をもう一杯

 そのレストランは、パリの繁華街、サン・ジェルマン・デ・プレの自宅から歩いて五分くらいの裏路地にあった。パリで最も華やかな場所にありながら、その店だけはずっと忘れられたようにひっそりと佇んでいた。「老舗」というよりも「時代遅れ」という言葉がぴったり。──なのに、不思議だ。一歩足を踏み入れると、なにかが、とてもいいのだ。

 なにがいいって、埃っぽい酒瓶が並んだバーカウンター。インテリア代わりに壁に貼られた無数のコルク。少し黒ずんだ赤いチェックのテーブルクロス。

 でも一番すばらしいのは、頭が薄くなりかけた店主とチャーミングな奥さんだ。お腹を空かせたわたしたちが偶然にもその店に迷い込んだ時、彼らはまるで友人が現れたみたいにカウンター席を勧めた。そして「食前酒はなににする?」と笑顔で尋ねた。パリに住み始めて二年、そんな扱いは初めてだった。

 その日は、大阪から遊びにきた友人にパリを案内していた。行くはずだったレストランは手違いで満席、困ったぞと思いながら曲がった路地で、この店を見つけた。

 薦められた食前酒は、道端の草を煎じたようなひどい味がした。しかし正しい日本人気質の友人が「ベリーグッド」といってしまった手前、飲み続けるしかなかった。なんとなく夫婦と話を始めると、わたしのヘタなフランス語と相手のヘタな英語が絶妙にブレンドされ、不思議なほど会話が途切れない。友人が、デジカメに入っていた大阪や京都の写真を見せると、「スペール(すごい)! いつか家族で行きたいね」と繰り返した。ふたりには、八歳くらいのかわいらしい娘がいて、わたしたちが話しをしている間ずっと絵を描いていた。一時間ほどかけて食前酒を飲み終える頃になって、ようやく苦味の中にじんわりとした甘みを感じられた。

 それから、たまにだが、その店に顔を出すようになった。夫婦はいつ行ってもビズ(フレンチキス)で歓迎してくれる。気をよくしたわたしは、日本から友人が来るたびにこの店に案内した。いつも常連客で半分ほどの席が埋まっていたが、満席ということはない。もはやなにも言わなくても、あの苦い食前酒がさっと出てくる。チビチビと飲みながら、たわいもない会話を楽しんだ。

 ね、いいお店でしょう。そう、友人たちにいいながら、内心では、ふふ、わたしはちゃんとパリに馴染みの店があるんだよ、と小さな自慢をしていたのかもしれない。それくらいわたしは、パリの生活に馴染んでいなかった。フランス語のグジュグジュした響きも嫌いだったし、ファッションウィークにもショコラにも興味がない。そんなわたしがパリに住み続けていたのは、単なる仕事の事情だった。職場では英語しか使わないので、フランス語はいつまでたってもヘタなまま。だから一歩街に出ると、デパートでも銀行でも役所でもヘマをしてしまい、一人暮らしの部屋で落ち込んでばかりだった。しかし、このバーカウンターに座っている時だけは、別人になれた。わたしはもはやフランス語がヘタな外国人なんかじゃなく、苦い味のお酒と会話を楽しむパリジャンの一人だった。

 一年が過ぎた頃、店に寄ってみると明かりが消えている。あれ、定休日じゃないからバカンスかなと思った。その後、何度寄ってみても、もう店の明かりが灯ることはなかった。

 移転したのか。経営が厳しかったのか。それとも家族でどこかに引っ越すことになったのか。張り紙もないので事情はまったくわからない。わたしは、「この店は未来永劫この路地にある」と固く信じていたので、連絡先も知らない。店の前を通るたびに、ガラスドアの隙間から真っ暗なバーカウンターを眺めることしかできなかった。やがて工事が始まり、気がつけばオシャレなレストランにとって変わっていた。

 それから数年が経ち、仕事を辞めてパリを去ることになった。その頃にはようやくフランス語にもパリライフにも馴染んできていたものの、今度は仕事の方がすっかりイヤになってしまったのだ。引越しの数日前、コーヒーを飲もうと小さなカフェに入ると、給仕の中年男性に見覚えがある気がした。あっ! と思うと同時に、その人もわたしに気がついた。あの店主だった。

 仕事の合間を縫って、短い会話をした。彼は、やむをえない事情で急にあの店を手放すことになった、妻と娘は遠くにいてあまり会うことができないと早口でいった。わたしは、もうすぐ日本に帰ることになったと告げた。お互いに「ボン・シャンス(グッドラック)」といいあってビズをすると、彼は仕事に戻っていった。

 わたしにとって一番スィートだったあの店は、彼にとってはビターな思い出なのだろうか。あの食前酒のように。


(以前、雑誌「TRANSIT」に書いたものをちょっとだけ加筆・修正しました)


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