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見えないアート、まとまらない会話

長い原稿を書いているとnoteもTwitterとかもあまり書く気がしなくなる。自分は集中力がない方なので、いったん集中力の糸ぶつんと途切れてしまうと、それをつなぎなおすのはとても大変だ。だから、本当に追い詰められているときは、できる限り自分の気を逸らせないための努力が必要になる。

一番ウザいのはメッセンジャーとかLINEとかで、キンコン、ピンポンと気を逸らしてくるから、通知が出ないようにするのが一番いいんだけど、うっかり忘れていると、あ、それ急ぎだよね? とりあえず返信しとくか、みたいな仕事系メッセージが次々と入っってきて、ふう、と一息つくとすぐ返信があって、やべえ、そういうことか、じゃあ・・・みたいにやりとりするうちにうっかり1時間くらい経ってて戦慄を覚える。やれやれ、やっと原稿に戻るかと思ったときには、宅配便の人がピンポンをならしたり、ひどくお腹が空いていて、もうやる気がなくなってたり。

いま、こうしてあれこれまとまりなく書いているのは、今日は珍しいことにすぐに書かなければいけない原稿がないんlだ。すごいことだ。いつぶりからかわからない。2月まではずっと映画制作で追い詰められ、それが終わった2月くらいからは次の本の原稿を揃えるという作業でリング際に追い込まれていた。とはいえ、原稿の元になる元原稿みたい文章はすでに9割ほどあった。しかし、残りの一割の原稿を書きながら、全体をつなぎ直して一冊の本にまとめあげる作業は残っていた。これが、けっこう腕力と手先と神経を同時に使うような作業で、なかなかしんどい。

最後は、取材した美術館や作家、作品関係者、登場してくれた友人の確認や修正があり、同時に文章の詰め作業も続いて、ああでもない、こうでもないと足したりひいたりを繰り返した。それでもって、ようやく先週の終わりに全てを編集の河井さんに送った。16万3000字で脱稿。最初の一文字を書き始めてから実に2年くらいかかってしまった。

河井さんとは長い付き合いになる。私の3冊目の本となった「パリの国連で夢を食う。」が最初の仕事で、もともとはノンフィクション作家の高野秀行さんが早稲田のシャン料理屋で紹介してくれたのだった。河井さんはやたら丁寧に原稿を見てくれるタイプの編集者なので、自分でよっしゃ原稿ができたぞ!と思ってからが非常に長い。とにかく河井さんは1行ずつ丁寧に見て、細々とした修正を連絡してくる。ほとんどが実はゲラでも修正できるような瑣末な直しなのだが、それを見ているうちに他の部分も含めてよく見直したくなるという奇妙な魔法があり、どんどん原稿はよくなっていく。

他に河井さんと作った本といえば、前作の『空をゆく巨人』。この本はかなり長いので、お互いに何度も原稿も読んで、ブラッシュアップをしていった。そして次の本が、今回の本。目が見えない白鳥さんと一緒にアートを作品を見て話して歩いた2年間をドキュメントしたものである。

9月には出版予定だけど、タイトルは未定である。一時期は「見えないアート案内」と呼んでいたが、いざ本にしようとするとなんか違うな、という気持ちになり、まだいまピンとくるタイトルがない。わたしはタイトルをつけるのが苦手な方だ。「パリの国連で夢を食う。」は高野さんがつけてくれたものだし、「空をゆく巨人」は河井さんがつけてくれた。今回も誰かがすごいひらめきでつけてくれるんじゃないかと期待しているのだか、まだそういうことは起こっていない。

次の本は、どういう本なのかとここでもう少し説明したいのだが、これが難しい。美術鑑賞の本といえばそうかもしれない。この間数えたら白鳥さんとは15くらいの美術館に足を運んでいた。むちゃくちゃ多いわけでも無いけど、福島や神奈川、奈良、新潟、富山など遠方の美術館少なくもないし、見た作品の数は数百点には及ぶのではなかろうか。とにかく、本にはそのなかでも特に盛り上がった30以上の作品が図版とともに登場する。

ゴッホやピカソ、モネといった印象派やキュービズム、仏像、版画、ボルタンスキーや大竹伸朗、インスタレーション、ビデオ作品など。中には新潟の「夢の家」のように一夜を過ごすことができる体験型の作品もあったり。

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本は、そういった作品を前にして、生まれては消えていったさまざまな会話をドキュメントしている。変な本だと思う。アートの本でもあり、全盲の人の人生の話でもあり、一緒にみた人たちの会話や思考、旅のドキュメントでもある。会話にはまとまりがなく、別に本として収録しなくてもいいんじゃないかというような会話もずんずん入っている。さらに白鳥さんが過去に体験したあれこれに加え、人間の視覚や夢、記憶のメカニズムについても書いている。おかげで、ステーキと胡麻和え、うどんに、寿司にケーキとわらび餅が並んだようなととっ散らかった本になってしまった気がするが、河井さんは「これでいきましょう」というのでなんとなく信じることにする。

どういう棚に置かれるかも謎である。ノンフィクションといっても事件もスペクタクルもなく、バリバリの美術本でもなく、障害とか社会を考える本ともちょっと違うし。きっと扱いにくい本だろうなと思う。それでもまあ自分としてはそれだけわけのわからない本を生み出すことができたのだから満足している。

とかく「わかりにくいもの」「答えが出ないもの」が毛嫌いされる昨今である。それだけにまあわかりにくいもの、まとまりがないものが世に出るというのは、それだけでいいじゃないかと開き直ることしかできない。

ちなみに河井さんは、一見するととてもマジメな編集者に見えるのだが、生み出している本は「世界の辺境とハードボイルド室町時代 」とか「全国マン・チン分布考 」とか「パンティオロジー」など、いわゆる「奇書」ばかりある。私がいままで出した本は別に奇書ではないが、はじめてこの「奇書」のラインナップに乗れるのかもしれないと思うとそれも楽しみだ。

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