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鳥取紀行 (その2) お金に縛られない世界に着陸してみた

鳥取の旅、3日目の夜は「汽水空港」という本屋さんでイベントをすることになっていた。たとえ短い時間でも、とても良い出会いというものがある。 それが汽水空港の一夜だった。

3週間ほど前に誰に言うでもなく「鳥取に行きます!」とツイートしたところ、「うちにもよってください」と店主・モリテツヤさんからのリプがあった。それから、あれよあれよという間にトークイベントが立ち上がった。

「家族旅行の時にイベントなんかおねがいしてしまってすみません」
とメールにはあったのだが全く問題ない。うちは常に旅と日常と仕事がいっしょくたになっているし、汽水空港にはどちらにせよ寄ろうと思っていた。

夕方、湖畔のホテルにチェックイン。ひとり歩いて汽水空港に向かった。湖畔の静かな道を歩いていると、とっぷりと日が暮れ、周囲には商店もなく、本当にこんなところに本屋さんがあるんだろうか、という気がしてくる。

ところが、本当にあった。

小さな民家の入り口に灯りがともり、「汽水空港」の看板が浮かび上がる。 

ああ、とため息をついてしばし眺めた。
夜の本屋さんの風景が好きだ。
ここにおいでよと優しく言われている気がする。 

小さい頃、実家から歩いて10秒のところに本屋さんがあった。当時ではどこにでもあるような、とてもありふれた本屋さんだったけど、小学生ときはそこでコロコロコミックを買い、中学生のときはコバルト文庫を買い、高校生のときはそこでバイトしながら澁澤龍彦を読んだ。だからか、今でも本屋を見るとほっとして、つい吸い込まれそうになる。 

実際に、子を持つ親になってみると、街の本屋の存在はすばらしいものだと気がつく。とくに探しているものなどなくても、大人でも子どもでもふらっと入れる。本屋のターゲットは全ての人だから、その懐の広さは格別である。そういう場所は実はとても少なく、その間口の広さは他の業種とは比較にならない。そんな街の本屋さんが全国から姿を消してると言うのは寂しいを超えて日本にとって危機的なニュースで、私は私なりに街の本屋さんを応援していこうと決意している。

引き戸をあけて中にはいった。
店内では店主のモリさんとアキナさんが待っていてくれた。モリさんは写真から想像したよりもずっと若々しくて、チャーミングな笑顔だ。外からみると平凡な民家だったが、中の作りは小屋組みや梁が見えて開放感があり、温かな雰囲気。

「こっちから先は最近増築したところです」と奥の一段高くなっているスペースに案内される。もともと庭があった場所にDIYでカフェ部分を増築したらしく、そこも立派な小屋づくりだ。 

小屋はここ何年かの自分のテーマなので、あ、小屋仲間発見!と嬉しかった。さらに奥に行くと、森さんが自分が住むために建てたという10平米ほどの独立した小屋があった。土壁と漆喰のどっしりとした小屋で、居心地がよさそうだ。「アキナと結婚してからは別のところに引っ越したので、今はギャラリーとして使っています」とのこと。三つの小屋が連なったような本屋さん。すぐにそこが好きになった。こんなところに集まる人たちはどんなひとなんだろう。 

店内にはC-C-Bの『Romanticが止まらない』が流れていた。
おおおお、なつかしい。
いまやあまり聞くことがないシンセサイザーサウンドの軽妙なビート。

とめて、ロマンチック、とめて、ロマンチック、胸が、胸が、苦しくなる

「いまハマってます!」とモリさん。もちろんリアルタイムでは知らないという。そうでしょうとも、だって私が中学生の時に流行った曲ですから。ついでに、もうカルロス・トシキ&オメガドライブの『アクアマリンのままでいて』も流してくれ、と思ったら本当にあとで流れてきた。
もはや、時空を越えた感がある。

森さんの人生は以下のこのnoteに詳しい。https://note.com/omotori/n/n25282538daeb

モリさんの人生は、一行で書けば「サラリーマンになりたくない少年が本と出会い、あちこちで農業や建築の修行をして、ひょんなことから鳥取に移住、農業やバイトなどをしながら、本屋をはじめた」ということになる。しかし、彼の思考と行動の軌跡、悩みの全ては一冊の本にもなるくらいのものに違いない。だから、この本屋「汽水空港」には彼の人生のあらゆることが詰まっている。

森:「あらゆるジャンルのことが本になっているので、本が、ありとあらゆる世界につながる入り口になったらいいなという思いで、『汽水書店』ではなく『汽水空港』という名前にしたんです。」

汽水とは、海水と淡水が混じる場所のことだそうで、目の前にある東郷池がまさにそうらしい。空港のように、あらゆる人々のが出会い、混じりあい、どこかに出発する場所。

そうこうするうちに20人ほどのお客さんが集まってきて、イベントが始まる直前になると、「ピンポンパンポン!」とアナウンスが流れた。

それは、空港に流れるようなイントネーションのアナウンスで、正確な文言は忘れてしまったけれど、「これからお金に縛られない世界に着陸します」というようなものだった。 

ああ、そうなんだ、私たちみんな一緒に旅していて、新しい世界に着陸するんだと思うとわくわくした。

トークのテーマはこの6月に復刊された「バウルを探して」。イベント自体はとても和やかな雰囲気だった。お客さんが良かればイベントは自然にうまくいくことになっている。

最後にお客さんからの質問のなかで「まだ本を読んでいないけれど、バウルとは、”job”とか、”なりわい”とか、そういうものなんですか」というものがあった。私はとっさに「”ジョブ”というと”仕事”ですね。バウルは、”仕事”ではないですね。でも”なりわい”なのかといえば、そうだと思います」と答えた。

バウルは、基本的に誰かのためにとか歌うのではない。自分のために歌う。自分の人生をより良きするために歌う。彼らは求道者なのだ。でもお金をもらわないわけではない。彼らの歌を聞きたい人たちはお金を払う。

「仕事」と「なりわい」の違いはとても大きい。 私たちの魂が本当の意味で求めているのは、仕事ではなく「なりわい」ではないだろうか。私もモリさんと同じようにお金というものに人生を支配されたくない。でもお金がなければ娘にガチャガチャをやらせてあげることもできない。でも仕事がなりわいになって、自分自身の人生や思考の一部にになればいい。仕事となりわい、その狭間で私たちはウロウロしている。

お客さんが帰っていくと、モリさんが魔法のようにたくさんのオードブルを運んできた。ごはんや焼き芋までたくさんある。こうして、イベントの後に各地の本屋さんと打ち上げをする時間が好きだ。お金儲けをしたいと思ったら決して選ばないのが本屋だ。 本屋を続けていくことは、簡単ではない。でもあえて本屋をやりたいという人たちがいる。

 なぜ本屋さんになったのか。 
 それを、なりわいにする人生とはいかなるものか。 

それを聞くことで「書く」ことをなりわいにする自分の人生の灯となる。

この日、実はこの日は、福岡から『おやときどきこども』の著者の鳥羽和人さんがきてくれていた。鳥羽さんはゴジラが編み込まれたかわいいセーターをきていて、文章から想像していた通りの雰囲気の人だった。

私は前に『おやときどきこども』を読んで心から感銘をうけていた。読み終わったあとは、自分の子ども時代のことをたくさん思い出して、声あげて泣きたくなった。優しさが体を包んでくれるような本だから、また何かに辛くなったら読もうと思う。

もしあの時代にこの本があったなら、私の子ども時代は少し違ったものになっただろう。小学生のあの頃、私の話を聞いてくれる人はいなかった。でも小学生だった自分の声の届かなさにある意味で絶望したからこそ、いま自分は誰かの声を聞く人になれたのかもしれない。だから人生はどこでどうなるか、わからない。

イベントのなかで、他にも「誰かの話を聞く上で気をつけていることはありますか」というような質問があった。その時パッと思い浮かんだことは、その人の話を、自分が事前に描いた「ストーリー」に絡めとろうとしない、ということを話した。できるだけ、その人のそのままえを描きたい。もちろん、「本」という読み物を成立させる上で”ストーリー”や編集がゼロということはありえない。でも事前に頭の中で勝手に描いた物語に沿って、それに合う誰かを探し、その言質をとるのではなく、聞こえてきた話から文章を組み立てていくという順番にすることを気をつけている。最初にあるのは「企画」やストーリーではなく、あくまでもその人の話がある。その順番だけは誤らないようにしている。

鳥羽さんの本の中で、誰かの話を聞くことについて示唆に富んだ一文があった。深く深く頷いたので、ここで紹介したい。

「わたしたちは、わからないからこそ手探りで相手の声を求めます。相手のことが知りたいと手を合わせて祈ります。逆説的ですが、相手のことをほんとうに「わかる」というのは、このような希求なしでは決してなし得ないものではないでしょうか。私たちは、その希求のことを愛と読んでいます」
「おやときどきこども」より

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