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目標は宣言しないけれど、機嫌よく幸せになるために生きる

ありんごです

目標は宣言する方かと言われたらそうでもないなと思う。小さい頃から「めあて」とか「もくひょう」とか言われて、都度進む方向を口にするよう求められてきた。でも人に向かって宣言することが良い方向に転ぶ人とそうじゃない人がいるとしたら、私は後者だった。

言ったからには達成しなきゃという気持ちで奮い立つタイプじゃないのだ。なのに、言ったからには達成しなきゃという圧力が周りから働く。それが耐え難いのだ。というのも、私にとって目標を立てるのさえも自分が幸せになるためのプロセスに過ぎないから、一つ一つの目標を達成すること自体が人生の目的というわけではない。だから達成自体が目的化してのしかかってくると息苦しい。

だから、人に言う目標は当たり障りのないものにすることが多い。やりたいことはまず行動しつつ、その過程で本当の目標や行きたい道を自分の中で言語化していく。そして見返せるようにそのプロセスも残しておく。自分と徹底的に向き合う。

そうこうしていると、何が好きか、何が嫌いかそんな話は人とたくさんする割に、目標や展望の話は深い付き合いの人にさらりと言うにとどめる、そんな状況になったりする。大々的にどでかく目標を言ってしまうと、苦しくなるばかりでにっちもさっちもいかなくなることに気づいたからだ。たとえば、目標を一度宣言してしまうと方向転換した時にその目標を辞めた理由を追及される。意図的に休み休み鍛錬しているのに、ずっと頑張っていないと目標達成できないよと余計なことを言われたりもする。それらに対していちいち説明するのが、煩わしいのだ。黙ってやる方が私には似合う。それで、目標を宣言することをやめた。

時には即座に方向転換することもある私にとって、目標を宣言することによってかかるプレッシャーが重すぎる。しかもそのプレッシャーは私を苦しくはするものの、1mmも私を動かすことができないということも発覚した。要するに、人から「できなかった人だ」「頑張ってない人だ」と指さされ始めてもやりたくない時はやらないのだから、自分で自分をやる気にさせる方法を探したり、やる気になるものに打ち込んでいった方が良さそうだ。

私が生きるのは、誰かに目標を説明したり、過去に立てた目標すべてを達成するためではない。そう割り切って結構時間が経った。手段を目的化したくないと思って割り切り始めて、続けてきた。

そして結局のところ、案外悪くないのだ。何が好きか何が嫌いか、何に興味があるか(興味のないことはほとんどないけれど)たくさん話しているからチャンスも舞い込んでくるし、何より自分が追い詰められて苦しくなることが減ったから、幸せ度が上がった気がする。

人それぞれ、自分の機嫌をとってやりたいようにやるのが生きる醍醐味だと思っている今日この頃である。


ありんご


(ヘッダー画像、心惹かれて拝借しています。跳ねるように走っていて可愛いなあと思います。心の中に浮かんでいた紺碧と星と月と、それでいてやわらかな気持ちもともにあって、というイメージが素敵なイラストを引き寄せてくれたのかもしれません。使わせてくださりありがとうございます)


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