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諦めてると言われても気にせず目の前のものを受け入れて進むの

ありんごです

体調が悪くてnoteの記事を連続投稿できなかった

それはただただ私の中だけの出来事だし

できれば毎日更新しようとは思っていたけれど

何にせよ私の中に永遠の絶対はなくて

日々変わる優先順位の中できる限り続けられたらと始めた時から思っていたのだった

この世界に生まれてきたからには肉体を労らずして生き延びることはできないから、どうしても優先順位の上の方に上がってくる

なので体調を優先することは私にとって当然のことである

人生において譲りたくないところの勝負で、文字通り肉体的に死んでも良いと心から思った時くらいだろう、優先順位が覆るのは

そうでなければぽっくり逝ってしまう

向こう見ずとチャレンジングは違うと思う

仮にイコールになってしまう日が来るとしても、それは今じゃないってわかる

noteの連続投稿記録が早くも途切れたことは一例に過ぎないのだが、

日々起きることに対する、私のこのような受け入れ方は、私に取っては「受け入れて対処している」だけであり人生の向き合い方におけるデフォルトである

一方、人からは諦めが早いと思われることがあって何度も困惑した

思われることは別に良いのだが、諦めないように説得されたことも多々あって驚いたのだった

だってまず、別に諦めたつもりはない

「妥協じゃないです方向転換です」なんて、私の好きな松村沙友理さんも言っていたが

受け入れて進んでいくしかないのだ

もし失敗しても絶望しても、やろうとしていたことが全部できなくても、人生は続いていく

むしろ絶望の先の希望こそ、カタルシスこそ美しいなんて思うことさえある

それに諦めないで粘って取り返しのつかないことになったらどうしてくれるんだね?くらいのことを思ったりもする

とにかく、人からとやかく言われても、最後は結局、「自分の選択の結果でしょ」と言われるだけなのだから、好きにさせて欲しいのだ

だから私は人から「良い選択だね」なんて言ってもらうことを「自分の選択で諦めた」

すると不思議なことに死ぬほど楽になった

むしろ人から「良い選択だったんじゃない」と言われることが増えたくらいだ。「でしょ?!」とにこにこ返すだけだけれど、、、

多分人から言われることは、自分が自分に対して無意識に言っていることの反映なんじゃないかなと、最近は思う

✳︎前に人を信じることについて書いてみたけれど、信じるも信じないもの自由だけど、人間関係の前提は、自分への問いかけと自分の中でものごとを定義することだと思う


だから自分の心の声に集中して、自分の喜びを追求するのが私のテーマになり始めている

私のことを大切に思ってくれている人が1人でもいるなら、その人にとっても今の私の方向性は嬉しいんじゃないかなと思ったりする

だって、相手のことが少しでも好きだったら、楽しく幸せにやっててくれることは良いことだって私は思うから。むしろ好きにやっていて欲しいから。その範囲の中に私も登場していたら嬉しいな

もちろん言うまでもなくこれらの意見はすべて主観だし、私の「受け入れ方」だって個性の一つにすぎない

でもきっと私は、これからもたくさん「諦める」。そうして、なんだかんだで、最終的にはそれぞれ好きにやっている人たちと、ときどきのんびり交流しながら、楽しく生きていくのだろうなと確信している

ありんご



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