「性同一性障害」という言葉に反対する人がもつ暗黙の前提。【私が指摘していきたいこと】

「性同一性障害」ではなく「性別違和」「性別不合」にしましょう、という議論があります。

アメリカ精神医学会などがそういうふうにシフトしているから、ということです。が、本当にそれでいいのでしょうか?

「性同一性障害」を悪とする人、これは医療従事者や当事者どちらもですが、前提としている考え方があります。
それは、「肉体に優位性があると考える思考方法」です。
すなわち、「肉体の性(→染色体の性ともいえましょうか)」に絶対的な価値があると考え、それから外れた精神をもっているなら障害だ、として、それが差別的だと言うんでしょう。

しかし、逆に、「精神(魂)」が本体であって、肉体が従属物だとすれば、どうでしょう?
肉体が魂に合わないものであったということなので、それを「障害」とし、医学の対象とするのは、なんらおかしくない、と思います。
もちろん、宗教とくに一神教をベースにするなら、「神の無謬性」についての整理はすべきでしょう。もっとも、それは膨大な蓄積がありますので、議論を組み立てるのは不可能ではないと思います。広く「障害」についても、参考になるでしょう。なぜ神は障害者をつくったか、と。

宗教(一神教や仏教など)の感覚がすっぽり抜けているから、欧米の動向で右往左往してしまうのでしょう。
なんだか、このことは全然指摘されていないような気がするのですが、気のせいでしょうか?
その方面での「GIDないしトランスジェンダーの護教論」というのをやっていきたいと思っています。もちろん、精神(魂)に性別があるとするのが前提ですが、聖書にしろクルアーンにしろ、男と女を創造したとしているので仕方がありません。もっとも、クルアーンなどは、男とも女ともどちらともつかないような存在のことも記述していますが、それはまた別の話で。

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