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愛「する」ということ

まだ学生で社会人が格好良く見えていた頃、干支ひと廻りも歳の離れた人と付き合っていた時期がある。
とても感受性が豊かで、繊細で、言いたいことはハッキリ言う詩人だった。
その人とは結局上手くいかずに1年足らずで別れてしまったのだが、彼は私と別れる間際にこんな忘れられない言葉を遺した。

「自分が愛されたくて、僕を愛するのは、もうやめてくれ」

衝撃だった。
正直、何を言われたのかわからなかったし、何が悪いのかもわからなかった。
普通、愛されたいから愛する、んじゃないのか?
愛されたくないけど愛する、なんてある?なくない?
この人は一体何を言ってるんだ?
ちょっとしたパニックだった。

「愛されたいのであれば、まず自分から愛しなさい」と哲学者セネカは言った。
私は、頭がもげるヘドバンをしたくなるくらい、その通りだと思っていた。
まずは何事も自分からだ。何も相手に与えられていないのに自分が大事にしてもらえるなんて、そんな虫のいい話があるわけがない。第一、くれくれと欲しがるばかりなのはシンプルにとてもダサい。
そう腹落ちしたからこそ、恋愛に限らず、様々な場面で「相手の愛(関心)がまだ自分になくても、自分から愛(関心)する」ということが当たり前の行動になるように日々過ごしていた。

何をしたら喜んでもらえるかな。
何が好きなのかな。
どんなことは嫌いなのかな。

そうやって自分から相手に興味を持ち、与えていくことこそ愛だと信じて疑わなかった。

しかし、それを真っ向から拒絶されたのである。

もう最悪の気分だった。
これが恋愛か、とも思った。
正しい手順を踏めばまず失敗しない仕事とは違い、人の気持ちが関わる恋愛はどんなに正しい手順を踏んでも自分の思い通りにならないことがある。

この、「自分はめちゃめちゃ頑張っているのに、それがどうしても相手に伝わらなくてもどかしい感情」は、恋愛に限らず、親子の間柄や友人同士でも味わうことがあると思う。

最悪な気分の私の中に浮かんできたのは、
「こんなにも彼を愛しているのに、愛してもらえないなんて…」
という嘆きだった。

そんな遣る瀬無さを抱えながらもごく普通に日々は過ぎていった。
1ヶ月…2ヶ月…と時は経ち、気づけば別れてから1年近くが経とうとしていた。
学生生活も仕事も忙しすぎて、時折彼のことを思い出すことはあっても、そんなに心を持っていかれることはなくなってきた頃だった。
ふと本屋さんで糸井重里さんの本を手に取り、ある一説に目が止まった。
そこには、こう書かれていた。


「愛しているのに、愛してくれない」と考えがちな人は、基本的にまちがっている。
つまり、その人は「愛する」ことはもともと難しいものだ、と知らないのだろう。


またもや頭を殴られたような衝撃だった。

“その人“とは、私のことだ。
まさに愛しているのに、愛してくれない。と感じていた。
糸井さんによると、私はどうやら「愛する」ということの難しさをちゃんとわかっていないらしい。

この衝撃をきっかけに、当時の自分の嘆きをもう少し観察してみた。
時間というのはやはりそこそこ良薬だ。
観察が出来るくらいには、すでに気持ちは落ち着いていた。


思い返してみよう。
愛しているのに、愛してくれない。私はずっと彼に「愛が伝わらない」と思っていた。
逆に言うと「“ちゃんと“伝わりさえすれば、愛を返してもらえるはずだ」という前提に立っていた。
この前提に立つと、自ずと次は、「どうやって愛をちゃんと伝えるか」という行動に移る…。

ここでハッとした。
お気づきだろうか。
自分が伝える・与えるばかりで、ずっと、一度も、相手を見ていないのである。
正確にいうと、相手が“恐らく“必要だろうこと・喜ぶ“かも“しれないことを観察はしている。
だが、それが“本当に“そうなのかを一度も見ようとしていないのである。
どうやったら自分が見てもらえるか、どうやったら自分の与える愛が伝わるか、どうやったら受け取ってもらえるか、そればっかり考えて行動していた。

あなたにとって、これは「愛」ですか?

という問いを一度も持ったことがなかったのである。

なんと自己中心的だろうか。
「この愛は、あなたのためのものです」と、欲しがってもいないものをずっと笑顔で与え続けていたのだ。


彼の言葉は足りなかったけれど、多分、本当はこう言いたかったんじゃないだろうか。


「君が愛だと思っている“それ“が、僕にとって“愛“として感じられるものではないのに、押し付けるのはやめてくれ」


もう今更会って話すことでも、謝ることでもないが、1人でそっと、ごめんねとありがとうの気持ちが湧いてくるのを感じていた。

彼は、愛するということはとても難しい。ということを教えてくれた。
愛は変わらず「ある」ものではなく、愛は変わりながら「する」ものだからなのだと思う。
愛は「与える」だけではダメで、愛は「一緒に捉え」なければならないからなのだと思う。


マルクスは言った。
「愛は愛とだけしか交換できない。もし人を愛してもその人の心に愛が生まれなかったとしたら、その愛は無力であり不幸である」


本当に人を愛するということは、きっと、相手と共にそれが愛であるかを確かめ続ける勇気を持つということなのだ。


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