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ありのままの自分とは何か?

ありのままって何?とか、ありのままに生きるなんかできるの?とか、ありのままの自分はダメだと思うとかいろいろと「ありのまま」というところに関しては考えがあるかと思います。

とはいえ、「ありのままの自分」で生きることができたら楽だろうな~という思いは皆さんなんとなくお持ちではないかと思います。

今回扱うテーマは

「ありのままとは何か?」

ということです。高校生なんかに尋ねると「ありのままに生きたらずっと寝てばっかりだ」とか「ありのまま生きるんだったら何にも頑張らないでいいはずだ」なんていう話が出てきました。今のままの自分で良ければもうそれで十分なので何もしないでいいという結論です。

しかし、ここに一つ誤解があります。「ありのままでいい」は「何もしないでいい」とは異なります。ありのままでいいというのは、本来の自分であっていいということで、自分の本音を押し殺したり、仮面をかぶって何かの「フリ」をしたりして生きることから抜け出そうという意味合いです。変な話ですがありのままに生きるためにこれまでとは違う生き方をするということにもなります。だからと言って、これまでの生き方をすべて否定するのも間違いなんです。そこも含めてありのままの自分を出していく必要があります。

これまでの自分も活かしつつ、まだ出せていない自分や認めていない自分をも出していくことでありのままになることができるわけです。その部分は自分の「弱さ」だったり「嫌いな部分」だったり「ダメな部分」である場合があります。しかし、ここが大事なところなんですよ。み言葉でも

ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。(コリント人への第二の手紙第12章9節)

とあります。文脈を無視しての引用ですが「喜んで自分の弱さを誇ろう」というところに何ともすごく励まされます。

弱さを誇りつつ、互いに励ましあえる場をつくることで、ありのままに生きられるようになるのではないかと考えております。

ありのままの自分というのは誰にとってのありのままだと考えますか?自分が思った通りの自分は「思うがまま」の自分で、それは我に寄った考え方ではないかと思うのです。本来人間は、そのままで素晴らしい存在として造られたわけです。すると、その造り主が考えている姿こそがありのままではないかなと思うのです。つまり、自分が思い描くありのままではなくて、神様に思い描かれたありのままこそが、真にありのままだと思います。そして、それは根っこにある思いは同じでも、目に見えて表現されるものとしては、一人ひとり違ったものを描かれたのではないかということです。

以前に、ありのままでいいは何もしないでいいとは異なるという話をしましたが、神様は何もしないために人間を造ったわけではないはずです。一人ひとりに与えられた使命—ミッションがあって、そこを生きるようにとなっていると考えられます。

で、そのミッションを知るためにはやはり神様との交わりが必要で・・・(あとは教会でいろいろ聴いていると思うので省略します)

「神様があなたに望まれたありのままの姿ってどんなものだと思われますか?」このことを心に留めて祈ってみると、どんな応答があるでしょうか。

頑張って自分を変えるのではなく、自分で良かったという思いが強くなる変化を味わっていくことで、結果として、何かに向けて頑張れる、本来の自分に造り替えられていくのではないでしょうか。

今回もお付き合いありがとうございました。

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