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#010.「集中できる贅沢」を味わおう

おつかれさまです。「タスクシューター界のジェームズ・ボンド」ことありひとです。

#009で、「タスクシュートが生み出す安心感によって目の前のことに集中できる」「集中できるからマインドフルネスになれる」って話をしました。

ここで軽く言語化してみていたのですが、わたしは「何も考えないこと」「心を無にする」ことがマインドフルネス状態とは思っておらず、どちらかというと、ある1点にレーザービームのように意識が集中していくと、結果的にそれがマインドフルネスな状態になっていくのだと思っています。

なので、求められるのは意識のレーザービームの照射先である「1点」と「その瞬間、1点だけを見つめてても良いという保証」です。その2つをタスクシュートは実現してくれる、そんな話をしました(したつもりです)。

じゃあ今度はなぜ「集中できる」といいのか?「集中できる」とどんなうれしいことがあるか?にちょっと頭を巡らせてみようと思います。

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だれもがパッと思いつくのは「集中する」ことによる成果への影響かと。

「集中できたことでより短い時間で質の高いものができたぞ」
「集中できたから、今日は仕事がいっぱい進んだぞ」

こんな感じの言葉がよく使われる。

これはわたしも同感で「集中できた」ことがもたらす直感的な恩恵のひとつであり、みんなが集中を求める理由のひとつであることは間違いないと思う。

ただわたしはもうひとつ、「集中できる」うれしさがあると思っていて、それが「この現代で集中できるということ自体が贅沢なことなんだ」というように、それ自体を報酬と捉える考え方。

『マネーロンダリング』や『言ってはいけない』でベストセラーになった橘玲さんは著書『シンプルで合理的な人生設計』で、「現代は”ユーザの時間”という希少資源を取り合う時代になっており、貨幣経済から関心経済(アテンション・エコノミー)(*1)に移行している」という話をしている。

また、ビジネス作家であり経営コンサルタントでもある山口周さんは、ホッブスの「万人の万人に対する闘争」になぞらえて「万人による万人の時間の奪い合い」と現代を表現している。

これらの主張はいまさら言われるまでもなく、自分の関心や時間が簡単に奪われることはみんなヒシヒシと体感しているはず。

スマホ、魅力的な動画コンテンツ、各種広告。

どれも超ウルトラスーパー頭のいい大人たちがわれわれの関心や時間をいかに集めるか?をめちゃくちゃ真剣に頭を捻って設計されているものばかり。

そこには最新の脳科学の知見とかも織り交ぜられているもんだから、正直、気合や根性でどうこうできるものでもない。

なので、そこはもうそういう時代だっていうの受け入れざるを得ない。

その前提に立ったときに「そんな現代で目の前のことに集中できる」ってめちゃくちゃ贅沢なことじゃないだろうか。

だから「集中できる」こと自体に価値があると思っている。集中できたその先の成果だけではなくて。

ここでミソとなるのが「贅沢」って言葉。贅沢って別にずっと続けたいものじゃないというか、ずっと続かないからいいみたいなところあるじゃないですか。

「今日は贅沢していい肉食べよう」ってピカピカで柔らかいお肉を食べたとしても、それが毎日続いたらやっぱりうれしくないわけで。

それと同じで「集中できる」ってことを贅沢ととらえると、たまにできるだけでも満足感を得られるようになる。

丸1日中ずっとは集中できず、目の前のタスクのみに意識を向けられる時間がちょっとしかなかったとしても「今日は集中できた時間が少なかったなぁ」と不足に目がいくのではなく、「今日は集中する時間が取れたぜ。ちょっとした贅沢だったな」と思えるようになる。贅沢ってそれぐらいがいい感じですよね。

もうひとつうれしいのは、「集中できる」こと自体に価値があるので、そのタスクの内容は問わないこと。

「出世につながるプレゼン準備に集中できた」から喜ぶ必要はなく、「皿洗い」でも「洗濯物の干す」でも「爪を切る」でもどんなタスクでも「贅沢」にすることができる。

これってめちゃくちゃすごいことだと思う。みなさんもタスクシュートを使って、「集中できる贅沢」を一緒に味わいましょう。

今日はこのへんで。ありひとでした。

*1)「アテンション・エコノミー」自体は1997年、アメリカの社会学者マイケル・ゴールドバーバーによって提唱された概念とのこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/アテンション・エコノミー


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