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「行動と言葉の世界」と「在る世界」:向き合う意義【ユタカジン】


はじめに

おつかれさまです。

この『ユタカジン』は「自分らしい時間的豊かさを追求する」をテーマに、複数のタスクシューターが交代で時間との向き合い方、タスクシュートの使い方、ひいては人生観などを語っていくマガジン連載です。

月曜日はわたし、「タスクシュート認定トレーナー」、そして「タスクシューター界のジェームズ・ボンド」ことありひとが担当します。

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前回のおさらい

前回の記事では、とある疑問をきっかけに2つのモデルを設けて自分たちの世界を捉え直してみました。

その2つが「行動と言葉の世界」「存る世界」です。それぞれおさらいしてみると次の絵のとおりです。

ポイントは2つです。

ひとつ目はわたしたちが生きているのはあくまで「行動と言葉の世界」であること。

言い換えれば、わたしたちが生きる世界に何かしらの変化を与えるには「行動」が必要なのです(「言葉」というワードもありますが、これについてはまた別の機会に)。

ふたつ目のポイントは「行動と言葉の世界」からは「在る世界」側へは干渉できないということ。

「在る世界」を考える意義

わたしたちが生きるのは「行動と言葉の世界」。しかも「在る世界」には干渉できない。

ってなると「在る世界を意識する意味なんてあるのかしら?」っていう疑問が湧く人もいるかもしれません。

今日はこれについて補足しておきます。

結論から言えば、めちゃくちゃ意義があります。

わたしやタスクシュート協会理事のjMatsuzakiさんのスタンスとしては「行動と言葉の世界」の営みは「ゲーム」として捉えていいと思っています。

よく挙がる例なのですが、マリオが谷から落っこちてゲームオーバーになったとしても、「あーマリオがやられた。自分はダメなヤツだ」みたいに深刻に落ち込んで、自責の念に駆られてしまう人はそんなにいないと思います。

ただし、だからといってみんなゲームを適当にやるわけじゃなく、結構真剣にやりますよね。

真剣にやるけど、深刻にならなくていい。

この感覚が「ゲームとして捉える」の大事な前提であり、パワフルな頭の使い方になります。

では、「ゲームとして捉える領域」を考えるうえで「ゲームじゃない領域」があると便利です。その領域をマルっと閉じ込める概念が「在る世界」です。

何か概念を捉えるときには、その対立とかそれ以外の概念を持ち出すとわかりやすいです。

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「在る世界」どうかを信じるかは、本当に人それぞれでいいと思っています。それはもう個人の信条の話です。どっちが良いとか悪いとかないです。

ただ功利的な側面から見ても「在る世界」みたいな超越的な何かを背景に持っておくのは、「行動と言葉の世界」に生きるわたしたちにメリットがあります。

どうあっても"在る世界"側の存在価値とか自己とかには一切影響しない、させられない。
どうせ影響しないなら、別に失敗しようがしまいが別にいい。てことなら、いっちょ行動しておくか。

この感覚が持てれば、それで十分恩恵があるのです。

前回記事でも「フレームワークという言葉を使いましたが「行動を促すためのフレームワーク」だと思ってくれてもいいです。

(ちなみに伝えておくと、わたしは割と「在る世界」のような大きな存在を信じているタイプです。なので、わたしはフレームワークというよりもっとウェットにこの2つのレイヤーを意識しています)

最後にわたしがこういう考え方を持つきっかけとなったjMatsuzakiさんからいただいたアドバイスを引用して本記事を締めたいと思います。

このアドバイスをもらったときは、タスクシュートにおけるタスクリストをゲームとして捉えるという文脈だったのですが、本質的には同じことだと思っています。

タスクリストがゲームというのは比喩としてではなく限りなく現実に違い捉え方だと思って使っています。

しかもゲームというのもマリオでいえばボーナスステージみたいなゲームです。敵が一切出てこない、ライフを失うことも一切ない、ひたすら取れるだけのコインを取って、たくさん1UPできるボーナスステージです。

人生というのは一切合切がこういったゲームのボーナスステージみたいなものなので、何をやっても何もやらなくてもOKなのです。せっかくボーナスステージなのでコインとっておくかくらいの気持ちです。

ーjMatsuzaki

今日はこの辺で。
ありひとでした。


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