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読む身体

演劇を実行する中で読むことはとても蔑ろにされている気がする。

書かれている事を追ってはだめだ。

とか

台詞を覚えて暗唱できるのは基本だ。

とか

現場での文字は、声に対してやっぱり立場が弱い。

「文字よりも言葉の方が心が伝わる」

ほんとうか。


ニンゲンは言葉でも優劣関係が大好きです。
嘘と真実だったら真実という言葉の方が白い光にまみれていて、嘘は黒い煙がつきまといます。そしてどうせなら白い光にまみれたい事でしょう。
自然と人工だったら自然という言葉の方が綺麗に思えます。
さまざまなイメージが方向を作っているのです。

文字と言葉もそういう関係だと思います。
文字は身体と逆の方にあり、
また、自然は身体の方。文字は人工の方にある。

♦文字を読む時身体は遠くにあると思いませんか?


本を読む時に身体は一切使っていないと思っていませんか?
でもどうでしょうか。

近くにある本を手に取って読んでみて欲しいのです。

私は本を読もうとすると自分の身体に無意識に注意が向いて、
息使いや、眼が焦点を合わせた先の、細かい紙の表面が見えてきますし、
本を支える手の指のカタチが気になったりします。

みなさんはどうでしょうか。

本を読むという事は結果的に身体を浮かび上がらせる力があり
文字を読む事で身体から遠ざかるなんていうことは無かったのです。
そう思います。


〇黙読って本当に黙なの?〇


文字を読む時に身体が遠ざかるというイメージは、
本を読んでいる時に
「身体を意識的に動かしていない」
と思われているせいではないかと思います。

しかし、私は黙読をするときに


声を出さず
口がほんの少しの息で喋っている状態
になる時があります。(本にもよりますが)

もしくは読みにくい漢字があった時にも。



文字は音と一緒です。

頭の中でも結局は音声で再生されます。
文字を読み、それを想像して理解するときに重要になるのは
身体から出てくるものばかりです。


たとえば。




右手の親指の爪で薬指の爪の間の不快感を掻きだした。


この文字を解釈する時、身体を使わないのは不自然でしょう。
自分の身体を使ってその動きを真似したり、状態を再現したりする。

この行動をすると、
文中の存在と自分が、身体を使ってぐっと近づくことになる。

「文字から身体に触れられる。」

この状態が可能なのは文字の力ではないかと私は思っています。
声では、自己と他者の差というものは合わさらないが、

文字にはこの関係を変える可能性があると思うのです。




▼実演と文学の狭間に近い所


文字と身体のこの可能性というものを追求する為にどういったツールが良いのか考えなければいけません。


身体で読むための文学は、戯曲と言ってもよいのではないでしょうか

そこでレーゼドラマというスタイルははずせないですね……

朗読という考え方も掛け合わせる方向も

可能性を感じるばかりです。





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