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創りこまない、描き込まない、受け取ってくれた人が想像できる「空き」をあえて作る。

マンガ家のアシスタント時代に、そのマンガ家さんが「俺のマンガの描いた作業量よりも少ないマンガ家でも一枚の原稿料は同じなんだぜー」と言っていて、他のアシスタントの人達は笑っていたけれど『そうか、内容が伝われば描き込むことがすべてじゃないんだ』と思った。

友達に誘われて共同作品展示の時、主催していた方から「君はいいよな〜簡単にちょちょいと描けて」と言われ「あはははは」と笑って流したけれど、『そんなに描き込まなくても伝えられますよ』と心の中で思ったのを今でも覚えてる。

印刷会社に勤めてる当時、その会社の社長に「絵のタッチは好き嫌いあるからねー、そのレベルにいるの?」と言われて、『それこそ描き込まない方がいいじゃんね』と思った。

これは持論なのですがはるか昔、独身の時に合コンに呼ばれ、その時話してくれた内容が自分の作風が理にかなっていることを教えてくれました。
その話は「ゲームセンターにあったとある恐怖ゲームで、音と声だけで物語が進んでいき画面もなく暗くて視界は全くない。それでも恐怖を感じるんだよ、それぞれが持っているイメージを脳内で想像するから」
そう、それなんです。

脳内補完するんです。

脳内補完とは、対象物の一部が隠れて見えないとき、欠けた部分を脳内で補完して全体像を認識することです。
自分が一番怖いのものはそれぞれで、そうすると誰かが作った映像を見せるより自分の脳内でつくるイメージの方が怖くないですか?
ってわけです。
だから、あおいぼく一枚絵本のあおくん達キャラクターも線を少なくしています。
「皆さんそれぞれの中にあおいぼくはいます」と言っているのは、皆さんの中にあるそれぞれのイメージで作り上げてもらうからです。
いわゆる『引き算で描く』ことです。描きすぎないから創作ペースも早く完成でき、そして伝わる。
描き込みすぎると想像ができないですからね。

創りこまない、描き込まない、受け取ってくれた人が想像できる「空き」をあえて作る。

未完成、未熟、と言われても、余力、余白、空白、を創り、受け取ってもらった人にその後を埋めてもらう。それもある意味共創できるアートですよね。

伝わるならシンプルの方が伝わりますもんね。

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