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膵臓癌で妻を亡くした夫の追悼文/1998年当時亡き父が執筆

母を偲ぶ追悼集「煌いて」からの引用です


最愛の妻へのレクイエム
飯島辰也

1997年12月29日(月)
13時間にも及ぶ、大手術から約1ヶ月。
年末年始を大好きな家で過ごすため、関東中央病院を退院。
12月とは思えぬ暖かで、穏やかな日。

1998年2月5日(木)
房代44歳の誕生日。
最後になるかもしれない、我が家恒例のバースデイ晩餐会。
イタリアンレストラン”ボニータ”に大満足の様子。

2月12日(木)
長女 里枝の合格発表の日。
房代と次女 有果梨は家で留守番。
私と里枝が運命の合格発表の場へ向かう。
車内での里枝は不安そうな顔。その横顔が妙に房代に似てきた。

合格発表の会場で自分の受験番号を見つけた瞬間の表情は、驚きと喜びも信じられないという何とも言えない顔。
私自身も感動で目頭が熱くなる。
本人が即、房代は電話を入れる。

「いつも冷静なママが凄く喜んでいた。」と里枝が顔を紅潮させて云った。
里枝は15年間の中で最高最大のプレゼントをママにしたことになる。
本当に良かった。
残るは房代の恢復のみ。


3月27日(金)
5泊7日の予定で、ハワイ マウイ島へ出発。
手術後ひどい下痢に悩まされ続けた3ヶ月。
この旅行が少しは気分転換になればと計画したものだった。

この1週間くらい前から、彼女は腰の痛みを訴え始めた。あれほど気丈な彼女がである。
旅先でモルヒネの使用を開始する。
服用すると強烈な眠気が襲い、本人は「トロトロ病になった。」とその様子を表現した。

そんな中、私は房代や娘2人を被写体にビデオカメラを回し続けた。
幾度となく、カメラのファインダーが涙で曇った。
これが最後になるかもしれない海外旅行だとしたら、とてもやるせない。

4月4日(水)
長女 里枝の入学式。
この頃から房代の身支度のペースが極端に遅くなる。
やはり思うようにならない体について、苛立つのだろうか。嬉しいはずの入学式だが房代は元気がない。

4月20日(月)
関東中央病院での定期検診。
体重43キロ。黄疸数値11。
目の白身の部分が黄色に変色。
体のダルさを訴える。

4月22日(水)
主治医の山下先生と面談する。
転移は確実。
「すぐにでも入院を。」と促される。

4月28日(火)
民間療法にわずかな望みを賭け、横浜佐藤クリニックへ。
B.D.Pという健康なリンパ球を投与する治療。
先生は私を一人別室に呼んで、「無駄なことになるかもしれない。」と告げる。
本人は恢復すると信じている。

どんな治療も、良いものと思えるモノは何でもやろうと改めて決心する。
治療後、房代が好きだった横浜中華街へ。
ここは二人が初めてドライブした街。もう20年以上も前の事。

萬珍楼の飲茶を、嬉しそうに無心に食べる房代。
「この人を失ってはならない。」と強く思う。
娘達におみやげを買って帰る。

5月3日(日)〜5月5日(火)
GW恒例の水戸への旅。
五浦観光ホテルへ1泊。別棟のその部屋は、海辺に建つ古いたたずまい。料理も温泉も満足のいくものだった。

翌日、これも恒例の河原でのバーベキュー。
私の両親、妹夫婦、そして子供たち。
総勢10名の賑やかな屋外パーティー。
けっして健康ではない体で一生懸命、肉や野菜を焼く姿が、胸が熱くなるほど愛しい。

3日目は実家でくつろぐ。
朝食後、茶の間で房代が横になり熟睡。
結婚して16年。実家ではまず考えられない、そんな姿を初めて見せた。
かなり疲れ切っている。
病気は確実に進行しているのか。

5月12日(火)
外来。黄疸ますますひどく、腹水もたまり始める。
体がとてもだるく精神的にも疲れた様子。
家にいても殆ど寝たきり状態になる。

5月19日(火)
次女 有果梨を5泊6日の学寮に送り出した日。
内科へ再入院。
外科ではなく、内科への入院は本人に病名を悟られないための配慮。
病室に入り、ベッドに横になった彼女はホッとした顔つき。
この日、体重39キロ。身長も以前より3センチも低い160センチ。黄疸数値30。胸水及び腹水あり。

5月25日(月)
内科 川瀬医師と面談。
今後の治療を円滑にするために、本人に癌再発を告知するとのこと。
数分後、その言葉を私の隣で聞いた彼女は、肩を落として涙ぐみ「知らなかった。」と一言。
絶望感にどうするこのもできない房代を、私はただただ肩を抱き続けることしか、慰める方法はなかった。

5月26日(火)
肝臓にチューブを入れ、胆汁をぬきとる手術。
この日以来、お腹からチューブを外に出し、ポンプをぶら下げる日常になる。落ち込んでいた気分も夕刻には少し元気になり、夕食にと買っておいた大増のお弁当を凄い勢いでおいしそうに食べる。


5月27日(水)
よく晴れた朝、昨夜はよく眠れた、とすこぶる元気がいい。
「今日の夕食は、洋風弁当がいいワ。」などと妙に明るい。
夕方、洋風弁当を持って病室へ。
朝とは打って変わって、背中を震わせ泣きじゃくり落ち込んでいる。
気持ちが悪い。腰が痛い。と訴える。
背中をさすりながら病気の状況を話して聞かせる。腹水にガン性のモノはなく、血糖値も下がってきている。肝臓も今のところ問題ない。
数時間後、少し落ち着いた様子でちょっと笑顔が戻った。

6月13日(土)
仮退院。
主治医達は退院することを歓迎してはいなかったが、本人の強い希望で外泊という形で仮退院した。梅雨の始まりで雨の降りしきる中、約1ヶ月ぶりの家へ戻る。
家に着いて1時間もしないうちに「旅行に行きたい。」と言い出す。
急遽、小淵沢のRISONAREへ。
イタリア人建築家の手によるホテルで本人は大満足。
この頃から歩行が意のままにならず、里枝が彼女の杖となり、かいがいしくフォローするようになる。


6月14日(日)
ホテルをチェックアウト後、雨の降りしきる中、さくらんぼ狩りに塩山へ向かう。
今年は不作で、やっと探したチェリー園だった。
房代は楽しそうにチェリー狩りに興じる子供達を見届けると、体がとても辛いのであろう、早々に車に戻っていった。

そんな時、里枝が不意に
「ママがね、私が死んだら料理の上手な新しいママをもらってねと云っていた。」と。
絶句……。
この時、房代は死を覚悟したんだと思う。
なんと残酷なことか。
誰に怒りをぶつけたらいいのか。

6月20日(土)
伊豆 熱川へ我々家族と義姉と長男の6人での1泊旅行。温泉プールやカラオケでそれぞれが楽しむ。
房代は衰弱が激しく、歩行することもままならず、再入院も考える。

6月22日(月)
旅行から帰った翌日のこの日。
衰弱した体を引きずるように再入院。
体重は37キロに落ちていた。
顔、土色に変化。
車椅子に乗せて病室へ。

6月23日(火)
房代が楽しみにしていた松任谷由美のコンサート。本人がとても外出できる状態ではなく、やむなくキャンセル。
「やっと取ってくれたチケットなのに。」と
悔しがる。

6月24日(水)
AM9時より手術。
最後まで嫌がっていた中心静脈栄養のチューブを胸に入れる。

6月27日(土)
この頃は、中心静脈栄養の点滴の効果のせいか少し体力が戻り、入院病棟の中を体力維持と言って、点滴のバーにつかまりながらの歩行リハビリ。その姿に胸を打たれる。
ガンバレ房代!!

7月1日(水)
大手術の日から8ヶ月目に入る。
日を追うごとに体に変化が現れ、
ひどい下痢に悩まされ続けた毎日。
黄疸による体のダルサ、耐え難い腰痛などとてもら辛いであろう日々を過ごした7ヶ月。
そんな中、内科婦長が1時間にわたって本人と話をしたとのこと。
房代の今1番の心配事は次女 有果梨のこと。
何もしてあげられない悔しさに涙していたという。
最後に婦長が「今、一番何がしたいの?」と問うと
しばし考えて「ゴルフ」と云ったそうだ。

7月7日(火)
夕刻友人の渡辺先生と私が主治医である川瀬医師と面談。楽に痛みを除去する方法について話し合う。
我々はMSコンチンを投与することを主張するが受け入れられず。この日を境に早期退院を考え始める。
翌日、自宅にリースベッドを搬入。
併せて、ホスピス小金井桜町病院に入院のための予約を入れる。

7月11日(土)
房代のやっとの思いが叶い、外泊の形で家に戻る。もうほとんど歩くとができず車椅子にて移動。
夕食にはウニ巻きと素麺を美味しそうに食べる。

7月12日(日)
前夜から呼吸が苦しい様子。
長女 里枝が房代のベッドの横で一晩過ごす。
朝、サンドイッチとスイカが食べたいというので買ってくるが、手をつけず。
AM9時 往診をお願いしている矢野先生、来宅。
AM10時 酸素吸入機搬入。
AM10時15分 渡辺先生、来宅。
房代はあまり意識がない。

薬のせいだろうと両医師。
PM0時頃から、体をタオルで拭く。
とても気持ち良さそうな顔。
白のシルクのパジャマに着替えさせたところで、
急に目を開き何かを云う。
たぶん「あ り が と」と云ってくれたんだろうと思う。

その次の瞬間
------房代の呼吸が停止。

PM0時40分
何度も房代の名前を呼びかける。
その度、ウッと息を吹き返そうとするが呼吸せず。

有果梨が私に抱きつき泣きじゃくる。
里枝は泣いてはいたが、冷静に事を受け止めている様子。
心臓停止は午後0時47分。

房代、君と出会って20年。
長いようで、短い時間。
泣き笑いの20年、いっぱいケンカもしたけれど愛し合った20年。

最後の君の言葉は
「パパ 死にたくない…」
だった。


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