笑いの大学

 舞台は笑え、映画には共感する

 WOWOWは粋なことをしてくれた。舞台映像と映画を録画して、少しずつ交互に見てみた。舞台は客観、映画は主観、と機能の違いに気づいた。

 舞台が圧倒的に笑えた。映画は笑えるところが一つもなかった。はじめは役者の力かと思ったが、よくよく見ていると、役者のタイプだけではなく、見る側の姿勢もあるのではないかと思えた。

もともとが舞台のために書かれた脚本で、映画では、検閲室のほかに、その廊下、芝居小屋と、ほかの場所が加えられている。場がすっきりしている分、舞台の方が、脚本をそのまま生かして笑いにつなげやすかったのかとも思った。

が、それだけだろうか。そもそも舞台と映画で描けるものが違うのかもしれない。舞台は、この作品ではいろんなアングルの映像が編集されていて、映画みたいな感じにはなっているが、そうはいっても、やはり舞台は舞台。舞台は、観客席から見る。物理的に距離がある。感情移入しても、見ている他者とは距離がある。

 一方の映画は、主人公の視点の映像が入る。客観的な見方もできるが、主人公と同じ視野を持つこともできる。

 そもそも笑いは、他者を笑う。ずれや優越という理論があるが、この場合に特に分かりやすいのは優越理論で、優越の笑いは他者を見るからこそ笑える。何かと比較しないことには優越はない。登場人物を笑うのは、その人を他者として見るからだ。共感し、自分と同体になってしまっては、笑いは生まれない。生じるとしたら、笑みだ。

 舞台と客席、という物理的に離れた仕掛けのある芝居では、笑いを生む作品を作れる。映画では、同じように登場人物を客観的に描くこともできるし、観客が自己を投影できるようにも作ることができる。チャップリンの無声映画の時代のような、ロングの映像ばかりの作品だと、描き方は舞台と同じだ。まさに笑いの作品だ。

 主体と客体、という点のほかに、現実と架空、という論点も考えられる。

 舞台は、面積でいえば数十平方メートルか、そこに作り物の壁やわずかな家具などで作られた空間が世界であり、この限られた世界を客席から見る。どっからどう見ても作り事だ。当たり前すぎるが、舞台はウソだ。客に見せるため、いろんな不自然がある。映画とは、ここが大きく違う。観客も、嘘を承知で見ている。その嘘の中に、リアルを見る。映画の中でのリアルと、リアルには違いないが、表現方法は変わってくる。

 古来、舞台で人間が描かれてきたが、見る側は他者として見てきた。それが映画になって、鏡を見るように、あるいは夢で見るように、描かれた人間を自分の投影として見ることができるようになった。

この作品で、検閲官が喜劇を理解するようになり、敵から仲間へと変わっていく。これが、舞台では客観的に眺められ、映画では主観として感じることになる。だから舞台は笑え、映画は笑えない。喜劇だと思ってみると、笑えない映画は失敗作となってしまうが、そうではなく、描くものが違うということだ。

文字芸術でいえば、舞台は物語、映画は小説、になぞらえられようか。どうしても映画や小説の方が、人間の内面を描きやすいから高尚なもののように思えてしまうが、この作品の舞台版と映画版を見て、それぞれに特性があり、見る人がそれを好きかどうかというだけなんだと思えた。映画は心境の変化を描いた。舞台は、その変化に伴う面白を生み出した。役者や演出といった要素に目が行くが、映画と舞台というそもそもの表現装置の違いが、表現する内容を変えてしまうということを如実に示してくれた。

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