マルタイの女

信じれば人殺しも証言もできる

 大御所女優が殺人を見てしまう。犯人はカルト信者で、女優は裁判で証言することになる。そして警官が、犯人から防護するため、一日中つきまとう。マルタイというのは警察の隠語で、対象者の意味らしい。そういえば、暴力団をマルボウ、警察庁をサッチョウ、警視庁をシチョウとか、警察関係は略語がいっぱいあった。今では絶対に使われることがないだろうが、キジルシってのもあって、キチガイのことだった。

 信者もキチガイも、人を殺せるくらいの人は、何かしらを妄信しているのだろう。

 伊丹十三はミンボーの女でも宗教団体を扱った。オウムとか宗教があからさまに嫌われた時代だった。今はオウムもだいぶ忘れられて、それからスピリチュアルがあって、御朱印や仏像のブームはまだ続いている。

宗教とか信仰とか、なんとなくとらえているからわかりにくい。わかりにくいだけでなくて、誤解してしまっている。宗教って胡散臭いと思っているが、その一方で座禅をしてみたいとは思う。比叡山を焼いた信長は悪人で、お寺を大事にした家康はいい人だった、と思えてしまう。友達が新宗教の信者だったと分かると不安になるが、お寺参りが趣味の人には好感を持ててしまったりする。

 この映画に出てくるカルト信者は、明らかに悪人だ。そういう描かれ方をしている。で、なんで悪人だ思えるかと考えると、おそらく、人殺しを平気でしているからだ。なんかのはずみでやむを得ず人殺しをしてしまったりもすることもあるだろうが、このカルト信者は何も考えずに人を殺せている。

 悪人というと、悪い考えをもって人に迷惑のかかる行為をする人、くらいに思っているが、落ち着いて考えると、良い悪いの絶対基準なんてこの世にない。ロシアとウクライナが互いを悪人呼ばわりしているみたいに、この映画のカルト信者も女優から見れば悪人で、女優はカルト信者から見れば悪人だ。

 この映画に出てくるカルト信者は、女優を執拗に追い回す。裁判所に向かっている警察車両にバットで殴りかかるなど、行為に躊躇がない。迷いなく行動できるのが怖いのだ。

カルト信者は、躊躇なく行動できる。教祖から指示されたことは絶対で、自分の考えをさしはさむ余地はない。というか、自分の考えをさしはさもうとしない。ただただ無分別に行動に出られる。行動の目的を考えたり、効率的な手順を検討したりしない。何も考えることのない行動。そこには当然、考えての上での行動ではありえない行動が起こされる可能性もある。だから怖いのだ。わからないから怖いのだ。

 なにも考えずに行動したりするなんて、できないだろうと思うが、あらためて周りを見回してみると、考えなしに行動している人は意外にいる。学校の理不尽な校則をなんの疑問も抱かず守っていたり、上司の言うことを丸覚えで人に話したり。考えない人は、思った以上にそこらへんにいるものだ。そして、そういう人たちは、えてして楽しそうに生きている。

 主人公の女優は、カルト信者の執拗な脅しにビビッて、裁判での証言をやめると言い出す。しかし、殺された人に報いようとする警察官に説得されて、証言台に立つことにする。いわば、警察官を信じたわけだ。証言によってどれだけ人類に貢献できるか、それは計測できるたぐいのものではない。カルトからの脅し、警察官による四六時中の監視、マスコミの無遠慮な視線、そうしたものに精神をすり減らされている時に、冷静な判断などできようわけがない。自分の思考限度を超えた判断を迫られた時、人は何かを信じて、自分の考えを超えて決断するしかない。

何も考えずに行動する、なんてのはダメ人間の代表格みたいに思えるが、よくよく考えてみると、人は誰しも、何かしらを信じて、冷静な考えを超えた行動をしている。その良し悪しは、時を経て後にやっと判断されうる。当事者には到底、判断できない。だったら、考えずに行動する人になりたいと思う。もちろん、なれない。

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