アナライズ・ミー

人として付き合えるかは、対等かどうかだ

 主人公は精神科医。車をぶつけたことから、マフィアの親分のセラピーをすることになる。マフィアは医者の都合に少しも気をつかわず、結婚式の最中でもなんでも、気ままに呼びつける。気に食わないと暴力を振るうマフィアに、恐れをなして精神科医は言いなりになるが、この精神科医は回を重ねるうちにだんだんマフィアに口答えする。そこから二人に友情のようなものが芽生えていく。

 なんか見ていて気持ちがいい。ロバートデニーロはマフィア映画のままのマフィアで、それでいて時々泣く。側近のデカい人もマフィア映画のままの怖い人だけど、この映画では人懐っこい感じがする。中学生の不良を思わせる、番長と手下みたいな奴らで、縄張りの中では傍若無人に好き勝手に振る舞う。そんな輩にこの精神科医は口答えをする。

むろんマフィアは、そんな精神科医にやさしくはしない。好きに扱える部品だと思っている。しかしこの精神科医を名医だと思い、愛想をつかされるのを恐れている。それで、二人は対等な関係になる。精神科医は銃で脅されるが、マフィアはセラピーをしないと言って脅される。互いに相手の言うことを聞かざるを得ない。

 対等な関係を友達という。世の中の人間関係で、友達という関係はどれだけあるのだろうか。会社内の上司や部下はもちろん、趣味の世界や同窓会なんかでも先輩と後輩といった上下関係が、当然のようにある。学生時代の同級生にしたところで、卒業してしまうと大企業と下請けの社員だったり、収入の多寡が感じられたりして、おのずと上下の差が生じてしまう。もしかすると、生涯を通じての対等な関係は、夫と妻くらいしかないのかもしれない。

 この映画の精神科医は、なんでかマフィアの心の病を治そうとする。たくさんいる患者の一人として、適当にあしらおうとすれば、そうできるはずなのに、真面目に患者に向き合う。マフィアの親分は親分で、この生意気な精神科医を処分せずに、馬鹿とだからか純粋だからか大切に扱う。

 結局、二人は、お互いに相手に好意と敬意を持っている。マフィアは社会的に抹殺されるべき存在で、精神科医は有閑マダム相手の三流セラピストで、それぞれ自分に自信を持てる社会的評価を得られる存在ではない。そんな存在だからなのか、馬が合うという不思議な理由からか、互いに人間的価値を感じ、捨て置けない関係となった。

友達というのは、そんなものかもしれない。よく生涯の友人は学生時代にしかできないと聞くが、学生だから友情が生まれるというわけでもない。大人になって友達ができないのは、同じ組織内で自分が先に上に行こうとする欲があるからで、そんな考えに同意する人は、同じく自分の利益ばかりを考えているということだ。

 この映画の主人公は精神科医で、マフィアとはかけ離れた存在だった。だからこそ、学生のような利害を超えた友情の生まれるスキがあったということだ。一時的なものでも長期にわたるものでも、対等の友人関係が構築できることなど、そうそうあるわけではない。対等な人間関係なんて、滅多にできることなどないのだから、もし万が一そんなことが生じることがあったらなら大事にしたい。


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