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自分を手放す

あるひとつの心の状態

この腹立たしさは一体どこからくるのか?
思えば、今年のテーマは「自分を手放す」だったように思う。
自分のネガティブな感情に向き合わされ続ける、そんな一年だった。

怒りや悲しみから逃れる一番手っ取り早い方法は、それを引き起こす対象から距離を取ることだが、そうもいかなくて、「もうこれ以上は無理だ…」というところまで来てやっと「自分が変わる」ことを選択できた。

瞑想や心理学といった、心と向き合い「己を克服していく」を探求している方々の情報を学び続けた。「マインドフルネス」「エゴに気付く」「統合する」「思い込みを外す」「二元思考から脱却する」「ありのままを受け入れる」「自己肯定感を高める」「大いなる存在を認識する」…

様々な教えと出会い、自分なりに意味を咀嚼し実践していく中で感じたのは、どの教えも本質的にはただひとつの同じことを言っているのではないかということ。

それは、「ある心の状態(αとしておく)になりましょう」というシンプルなこと。シンプルだが、その心の状態をぴたりと言い表わす言葉はまだ(少なくとも日本語には)ないと私は思う。

それは、特定の感情というよりは、あらゆる感情の根拠となる判断基準(自我により付けられた物事の評価ラベル)を、一枚一枚取り去った後に残る「背景としての安心感」と言う表現が近いかもしれない。

その状態になるには

自我のつくった物事の判断基準は、無意識の地層にまで浸透していて気付くのは難しい。日々沸き起こるネガティブ感情をトリガーに、なぜ自分はこのことに怒りを感じるのか?悲しみを感じるのか?どんな思い込みの価値観が隠れているのか?それはいつ形成されたのか?と自分の内奥へ掘り下げる努力をしなければ見えてこない。

その作業は慣れてくれば感情を切り離してできるようになってくるのだけど、それよりも大前提として理解しておかなければならないことがある。

それは、すべての出来事や物事は、大局的には「私は何も分からないし、何もできない」という「究極の無力さ」に気付くことだ。

なぜ無力さが安心につながるのか?
「人間万事塞翁が馬」ということばがある。ある出来事が起こったとして、それが良いことか悪いことかは状況次第で変化するものだ、という意味だ。

であるなら、何かを良くしようと頑張ったり、誰かのためと優しくしても、
意味ないんじゃん。と思う。私もそう思ってた。

でも、それが当たり前になるくらい核心まで受け入れられるようになると、ある日突然、雲のない快晴がやってくる。

何も分からず何もできないなら、何を賢く立ち回ろうとする必要があるんだろうか。誰かに嫌われないようにとか、少しでもいい条件の仕事に就こうとか。

正解も不正解も誰も分かり得ないからこそ、「~すべきか?」という問いはナンセンスだ。私たちが唯一考える価値があるのは、「心からしたいことはなにか?」という問いだ。

そこから見える景色

そうやって「究極の無力さ」を経由して見える景色は、「限りなく透明なガラス」越しに見る地のままの景色だ。

寝転がって窓から雲の流れているのを見る、ただそれだけの時間が愛しい。正しさなんかもうどうでもよくて、同じ時代に生まれ出会い、共に過ごす人々が、たまらなく愛しい。何もかもがあまりにも貴重で、「ぜんぶ、これでいいんだ」と思える。

細かい言葉尻にいちいち腹を立てたり落ち込んだりしていた1月の私からすればずいぶん遠くまで歩いて来たように思う。しかし一度できることと継続してできることは全然違う。これからも沢山の思い込みと対峙しなければならないだろう。まだ魂の道半ば、2024年の年末にはどんな場所に立っているのか、もう楽しみだ。

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