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スイカとかき氷を


七月の雨の日に
 明日の朝、私はあの拷問のような試練を乗り越える。27.8の時にもたしか経験した、あれだ。

 父は41でこの世を去った。麻酔蘇生科の医師で、子煩悩、少し笑顔がニヒルで優しい父だった。今三十五の私。あと六年すれば、九歳だった私も彼と同じ歳になる。

 父が亡くなる前夜、6月30日夜、何時ごろのことだったろう。病院に呼ばれた。当然はじめて経験する「父の危篤」だった。病院へ向かう準備を終え、祖母が肩を撫でて優しく諭す言葉を、子供部屋の緑色の少しふさふさした床をみながら、聞いた。父親が居なくても立派に生きている子供はたくさんいること。そして、パパが苦しそうでも決して泣かないこと。それを指切りして約束した。
 幼い頭なりに苦しむ父の顔を精一杯想像し、病室のドアを開けた。だが、そこにいる父は何一つ普段と変わらなかった。ひょっとしたら周りに誰かいたのかもしれない。でも、記憶の中ではそこは白い部屋で、私と父二人きりの時間があった。夜中に蛍光灯を見たせいか父を眩しくも感じたのを覚えている。

 父と子に意外と話題はないものだった。
「英語は楽しかったか?」
「うん」
習い事の話を、ひとつふたつ。私は父の目を見られなかった気がする。ただ、その時間が終わるのが怖かった。でもそのときはすぐにくる。

 ここで母の声が聞こえてきたからきっと母はずっとそこにいたのだろう。「明日から七月ね。」「夏だなぁ」そんな会話のあと、私は、父に聞いた。「じゃあ、明日何持ってきて欲しい?」「すいか、かき氷かなぁ」と父。ここで、そろそろ、と部屋を出るように促された。母だっただろう。私は言いたい言葉も聞きたいことも、全部飲み込んでとびきり元気に聞いた。「どっちがいい?」父は笑った。「どっちもだ」。その笑顔に「欲張り!」とアッカンベーのような顔をしてブンブンと手を振った。

 次の日、雨上がり。学校から帰ると玄関で黒く囲われた「忌中」の文字が、私を足元の水たまりに引き摺り込んだ。父はすいかも、かき氷も食べ損ねたのだ。

 未練。死にゆくものに様々あるだろう。四十一で九つの娘を残した。少なくとも、あの日、七月一日、彼は娘の持ってくる、その夏はじめてのスイカとかき氷を食べ損ねた。

 父は直腸がんだった。いかに無念だったろう。彼を見送る医師の友人の言葉も背中も悔いと無念に満ちていた。タバコを吸っていなければ。もう少し生活が規則的なら…もっと医療が進んでいれば。
 明日私は胃カメラを飲む。大嫌いな胃カメラ。いつか愛する人が持ってくる美味しいものを食べ損ねた後悔を残して逝かないために。大事なことを言い忘れないために。

(2019年7月に描いたものです)


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