得体の知れないコミュニケーション力を異常に重視し、IT化をやむを得ず取り入れる社会

何か意見を求められた際や、会話の最中に、コミュ力が無いといった言葉が会話の終わり文句として使われる。私は、コミュ力が無いのではなく、相手に自分の意見が伝わるにはどうすれば良いかが分からず「やばい」の一言で会話が成立すると考えている。では、本を読み語彙力を鍛える、ボキャブラリーを増やせば良いのではないかと思うだろう。しかし、これは意味が無い。その理由として、単語や熟語を覚えることに集中し、正確な文脈で使うことができず「やばい」と同じ使い方になる。例えば、誤謬という言葉を覚えたとする。日常で使うことは滅多になく、合成の誤謬という1フレーズの使い方しか私も分からない。しかし、ビジネスの現場では、意識高い系が誤謬をfallacyと言っているのかもしれない。また、面接では特にコミュニケーション能力を重視する。私は、一生懸命に何か研究や勉強をした人、泣きながら意地でも入社したいと思いを伝える人を、人生の岐路である場面で、コミュニケーション能力で判断するのはいかがなものかと感じている。では、何を基準に判断するのかというと、将来の夢や、やりたい事が明確かどうかを聞くだけで判断できると私は考えている。その理由として、「将来の夢は何ですか?」と訊くだけで、夢に向かって頑張ってきたこと・なぜ、それに興味を持ったのか・自分の何が活かせると思うか・挫折経験といった恐らく面接での質問をすべて知ることができる。また、将来の夢が仮に明確であれば、いくらでも話すことができ、得体の知れないコミュニケーション能力という判断基準を設ける必要がなくなる。あと、1つ感じているのが、上司や年上の人が部下や年下に対して指示を聞いていて、あまりに抽象的かつ短く何が言いたいのか分からない。相手が理解してくれるだろうという丸投げの言葉であり、相手のコミュニケーション能力を判断できると言い切り成長が止まっている人であると感じる。まとめると、コミュニケーション能力は判断できないので、判断できる人は恐らくAIのように何千万人・何億人の会話データを記憶できる超人である。

最後に、養老先生のヒトの「壁」を読んでいて、「日本はやむを得ずIT化を進め、海外諸国から不思議な国だと思われている」といった文があり、確かにそうだと感じた。その理由として、ITは手段であるにもかかわらず、IT化がゴールになっている現状から、IT後進国になったのが腑に落ちる。

この現状を変えるには、群馬に移住するしかないのかもしれない

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