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ルール?展に行ったけど

21_21 DESIGN SIGHT で開催中のルール?展に行ってきた。
期待して行って、結構なもやもやと少しの収穫を抱えて帰ってきたので
感想をここで。

個人的なはなし。

最近、学ぶのはとても楽しいのに、大学は行きたくないのはどうしてだろう、みたいな疑問を持っていて。
それの1つが、「ルール」なんじゃないかな、と思っている。

今の私にとってルールは
「この授業を受けるなら毎週何曜日何時に授業にログインすること」
「大学を卒業するなら○個以上の単位をとって、○年大学に通うこと」
「休学するなら○日までに先生と面談して書類と診断書提出すること」
みたいな形で見えている。
ご丁寧に「日付を過ぎた場合にはいかなる理由があっても受理しません」
みたいなワードがついていることもある。

それでたぶん、今の私はそれらが大嫌いだ。
そのせいで大学に行きたくなくなるほどに。

それでも、学ぶことが目的であるはずの大学なのに、学びたい私が
ルールなどという些末な手段にひっかかって通えないのはとても悲しい。

そんな時に、ちょうどルール?展を見つけた。

「規律、命令」だけじゃないルールの側面を知ることで
自分が持っているネガティブなイメージから脱却できるかも?
と思えて、大学どうしよう問題を抱えながら行ってみることにした。

ルールの新しい側面

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わくわくしたのはそのコンセプト。

ルールは「縛るもの」ではなくて「自由に生きる」ためにあるという捉え方。

いつもは見えないルールを可視化したり
ルールができていく過程を知ったりすることで、
ルールがものづくりの土台になっている側面や
大勢が認識を共有することで安心して過ごせるための「共通言語」になっていることを知ることができた。

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例えば会場で配られていたガイド。
選んで押したスタンプは
「普段より大きな歩幅で歩く」「禁止事項を全部指差す」。
ルールが加わった途端、ゲームが始まるようなワクワク感があった。

そっか、ルールが楽しいを作ることもあるんだ!と思って。

頭に浮かんだのは野球。
球場で応援している時、ふと「なんで棒を球に当てるだけでこんなに熱狂できるんだろう」と我に返る時がある。もちろん歴史やスター選手たちの積み重ねてきたものがあるけれど、土台にはやっぱりルールがある。


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例えば「ルールが見えない四角が行く」の展示。
(四角だけだとどういう法則で動いているのかわからないけれど、その前においてあるモニターを見ると枠があって、四角はその枠に対応するように動いている。)
意味不明な行動は、その行動がどんなルールに基づいているのか知ることで理解可能になることがある、ということ。

海外とかで「相手がなんで怒っているのかわからない」という状況が、
その国の文化や価値観を知ることで解消されることあるよね!と解釈した。


展覧会自体が実験/もやもや


それに、展覧会自体が参加者が関わることで形が変わっていく「余白」を残している、という仕組みも面白かった。

参加者に意見を募る張り紙や、
参加者が自由に動かしていいオブジェクトがあるなど、
参加者がルールを通して展覧会に主体的に関わっていくための仕組みが様々に施されていた。

一方で、参加者に「自分の判断と責任で」関わる自由を残すことには
難しさもあるように見えた。

印象的だったのは、会場内に貼ってあった「ルールの変更履歴」である。
会期が進むにつれてルールが変更されていく、つまりは展覧会の形が変わっていく様子がよく見えるものだった。

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でも追加されたルールはほとんどが「禁止」「ご遠慮ください」みたいなもので。前書きにあった「縛るものではなく自由のため」という言葉とは対照的だったし、禁止事項が次々と追加、強化されていく様はどんどん窮屈になっていく(縛られていく)ような印象を受けた。

さらには「どのような理由によってルールが加えられたのか」見るように促す文章は、ともすれば「ルールを破るやつがいるからルールが強化されて不自由が増すんだ」と(ルールが破られる理由、不自由が生まれる理由ではなく)ルールを破った人そのものに視線を向け、責めてしまうことにもなりかねないのではないか、とも思われた。

じゃあどうしたらいいのか

ルールを縛るものとしてだけじゃなく見ること
参加者も縛られすぎず自分で考えて行動すること
それに期待しただけに、
その展示会に禁止事項としてのルールがどんどん追加されていく様子に
ちょっと、いや結構がっかりしてしまった。

でもそのうまく行かない様子も展示のひとつである。
せっかくだからもうちょっと考えたい。
どうしたらいいのか。どうなっていくのがいいのか。

例えば「展示された教科書に(触ってはいけないのに)触ってしまう人が多い」という問題。
会場では「触らないでくださいの張り紙をする」という対応をしていた。

考えてみる。
そもそもなぜ触ってはいけないのか?
なぜ触ってしまうのか?

感染防止のため触ってはいけない、なら「横に消毒液を置く」とか
見せたいページがわからなくなる、なら「付箋を貼る」とか

しょぼい案ではあるけれど、でも理由ごとにいくつか案は出る。

たぶんやり方はもっとあると思う。
もしかしたら「触るまでなら許容できる」になるかもしれないし、
募れば画期的な案をデザインしてくれる人はいる、と思う。

もちろん会場は混んでいたし
ルール変更はメインではないのかもしれないけれど
ルールを扱う展覧会なのだからせっかくならルールがどう変更されるのか、されるべきなのかもうちょっと展開してみんなで考えられたら良いのになぁ

自分の発見

ほとんど感想は以上なんだけど、
展覧会を観ながら自分についていくつか気づきがあったのでそれも。

○やっぱり興味の対象、「人」かも

前書きの1つで提起されていたのは、
ルールによってクリエイティビティが増すという論
(例えば道路交通法に対応して電動キックボードの形が変わっていく展示)
でも私は
ルールがあるから人の創造性が増す、とルールに注目するより
ルールをバネにして創造性を高める「人」がすごいと思うし、そっちに興味が湧くなあ。という気づき

例えばで極論かもしれないけど。
イランで「女性は髪を覆わなければいけない」というルールがあって、
女性たちがカラフルなヘアスタイルをスカーフのしたからチラ見せしたり、もはやヘアバンドでは?みたいな面積の布をかぶることでファッションを楽しんでいる。
それはルールがすごいんじゃなくて女性たちがたくましいんだと思う。

○言語としてのルール/法

ルールに対してはやっぱり拒否感はあるけれど、
法学を学ぶ1人の学生として親近感もある。
今回の展示であった「共通言語としてのルール」は面白く感じたし、
法もそこに当てはまると思った。
私にとっては法自体が面白いのではなく、法という言語を通して政治や人々、文化を見るのが好きなのかもしれない。だからこそやっぱり、法学的なものの見方はどうにかして手に入れたいわけで。

○デザインへの興味

散々文句を言った「会場ルールの変更」の展示。
がっかり感の中に「やってはいけないことをやる人がいる→やらないように貼り紙」はスマートじゃなくない?と思った自分がいた。
あまり学んでないから自信ないけど、これデザインの視点じゃない?
ルールへの拒否感が「強制されること」への拒否感に近いなら。その中で「強制される」意識を与えずに人に行動を促すことが出来るとしたら、それがデザインなのでは?とちょっとワクワクしている。

(おまけ/個人的なはなし。の結末)

ルール?展に行って、ルールの見方を変えて、ワクワクして法学部に戻る、
というのが私のひそかな目論見だったのだけど。
会場ルール変更履歴の展示に絶望感を覚えるくらいには、規制と禁止が嫌すぎることがはからずも判明してしまった。ので、久しぶりに休学することにした。

困ったなあと思いつつ。
しばらくは大学という「ルール」から解放された自分がどうなっていくのか、興味を持って見守ってみることにする。

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