一日一首(十一日目)

母親のなさけの泥土に咲く菊は十日過ぎても枯れずじまいに

↓述懐 
 三島由紀夫の戯曲の中でも「十日の菊」と「朱雀家の滅亡」はあまりにもやるせない。女の深情けが、人生至上の瞬間を汚したのが前者、汚し損なったのが後者、というのが私の捉え方です。

 我が身を振り返ると、確かに母親のような情けでもって通してはならない筋を通したことがあります。性別で語るのは嫌がられるかもしれませんが、「女性的な」愛というのは、高邁な(?)精神を堕落させる危険を多分に孕むもの。つまり、言い換えると、個人の欲に忠実に動く愛というのが「女性的な」愛なんじゃないかと思いました(男性だって「女性的な」愛を持ち得るでしょう)。

 母親の息子の命を助けたい、という思いは、普通は美談でしょうが、よくよく考えれば息子の精神を穢すものになりかねない。重陽の節句(九月九日)を過ぎた菊(母親の情け)は、もはや枯れねばならない時を迎えているのに、まだ咲き続けている。その浅ましさは時として目も当てられないものになるということを、自省を含めて詠んでみました。

深夜テンションで書いたので、おそらく後から手直しすると思います.....。

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