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月を撮らない理由

 「秋は、夕暮/冬は、つとめて。」と清少納言は言い張りますが、秋冬の夜空もなかなかのものです。空気が非常に澄んでいるので、空がはっきりと見えます。私が唯一判別できる(笑)星座「オリオン座」も身近くに見えます。私の家はすこし小高いところにあるので、家の門まで坂を登らないといけません。バイト帰りの深夜など、坂を登って自然と目線が空へと行く中、知ってる顔(星座)を見かけると「今年も君に会える季節が来たなぁ。」と勝手にノスタルジックな気分に浸っています。一年ぶりにあった親戚の男の子がちょっと大人びているのを見かけた時のおじさんってこういう気持ちなんじゃないかな、とか思って門をくぐります。気持ち悪いですね。バイト帰りは疲労で頭がちょっと鈍くなっています。

 私の住んでいるところは、非常に乾燥していて底冷えがします。そんな秋冬は月を見上げるくらいが唯一の楽しみみたいなモノです。月が美しくきらめていると、ついつい携帯のカメラで撮りたい衝動に駆られるのですが、滅多に撮りません.というか、撮れません。もちろん今まで何度も撮影したことはあるのですが、その都度消してしまいます。

 なんか、違うんですよね。カメラロールに納めた途端に、月はひどく矮小化してしまう。私が感じ取った情報が、そこには全然ない。ただ、暗い画面にポツリと光る白い点があるだけ。もちろんカメラの性能や私の撮影技術が低いという問題もあるんですが、それを分けて考えていても、なんか違う。なんでなんだろうなぁ、とずっと思っていました。

自然に岩石のくずれおちた山肌の景観が、すごみがあっておもしろいとします。いかにも、このまま枠にはめて庭に取りいれたら、どんなにいいだろうと思えるでしょう。だが、芸術作品としてあらためて見なおしたとたんに、そのすごみは、しらじらしいほど消えうせてしまうにちがいありません。もし芸術とするならば、そこから幾つかのものを選びとるか、あるいは、なにか加えるか、いずれにしても、あたらしく手を加え、構成することが絶対条件でしょう。………自然を絶対視し、そのままの姿であらわそうとするにしても、まず自然をそのままシチュエーション(情況)から話、おきかえてしまうという、反自然的な抽象作用が前提になります。それを通して再構成の手続きに成功した作品だけが、感動を呼びおこすのです。
岡本太郎「日本の芸術」250頁

 これだ、と思いました。夜空に写真という枠をはめて飾ればどんなに美しい絵になるだろうと思っても、そうはなれない。夜空は夜空として楽しむか、切り取った夜空の一部を「私の作品」に加工しなければ、鑑賞に耐えうるモノにならないんですね。携帯のカメラロールに収まった夜空の一部は、鑑賞に耐えられないモノだと感じ取って、私はデータを削除していたんだと思います。私の感じ取った「美しい月」を自分のものにしたいと思っても、単に写真で切り取るだけではできないわけです。

 そして、自分が風景を見て作歌意欲を刺激される理由も自覚しました。美しい月を自分のものにしたいと傲慢にも思った時、自分の撮影技術ではできない。だから、まだ形にできそうな短歌を通して自分の「美しい月」を保存して自分のものにしたいんだな、と自覚しました。

 私はこれからも月を撮らないでしょう。久しぶりの大雨で前も良くみえない中、そんなことを思いました。


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