自分の葬儀について考える

今年の初めくらいから自分の葬儀について考えるようになった。
先に書いておくと、暗い話をしたいわけではない。
きっかけはある友人の葬儀に参列したことだ。
事故死。当然のことながら、予想だにしなかったことだ。
人間はこんなにもあっけなく、突然死んでしまうのか。
ついでに書くと、3年くらい前には当時30歳だった親戚が膵臓がんで亡くなっている。
親戚が亡くなったときも「人間はいつ死ぬかわからないな」と感じたが、友人の事故死でその感覚はより強固に、より現実的になった。
避けられないその死に、僕は怯えるしかないのだろうか。

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事故で亡くなった彼はバンドマンで、作詞作曲もおこなっていた。
昨年、そのバンドは3曲入りのCDを発表し、これから精力的な活動が始まろうとしていた(と、聞いた覚えがある)。
彼のバンドが出したCDは、僕が知っているかぎりその1枚だけだが、その曲はいまでもよく聞いている。

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葬儀会場に着いた。
遅れて到着したため、僕は祭壇から一番遠い席に座った。
しばらくして呼吸が落ち着いてくると、耳に入ってきたのは聞き覚えのあるバンドサウンド。
彼の曲だ。
とても控えめな音量で流れていたため気づかなかったが、僕が買ったあのCDの3曲が繰り返し流されていた。
そして一番後ろの席から祭壇を見ると、彼が弾いていたギターがたてかけられている。
「これだ」と思った。

自分が動けなくなったあとも、自分の作ったものは残る。
死に怯える自分ができることは、つくることだと思った。
葬儀の場で自分の曲を流してもらったり、短歌を飾ってもらったりする。
良い。楽しそうじゃないか。
自分がその場にいられないのが残念で仕方ない。

死は避けられないし、いつ訪れるかもわからない。怖い。
しかし、死を意識して自分の葬儀まで考えてみると、不思議と気持ちは軽くなる。
もっと言えば、生への活力を与えてくれるとさえ思う。
死や葬儀について語ることを「物騒だ」「不謹慎だ」などとは思わない。
僕は自分の葬儀をにぎやかにしたい。
そのためにやることはたくさんある。

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この投稿の本編は終わりだ。
ここからは自分の作品を紹介させていただきたい。
僕は「蕎麦彦」という名前で短歌を作ってきた。
その集大成として、先日、第一歌集『フェイス』を出した。
これで自分の葬儀に多少なりとも華を添えられるだろう。

この歌集には僕が短歌を始めた2012年から2019年上半期ごろまでに詠んだ98首がおさめられている。
ブログには歌集の掲載された全98首を公開している。
一首だけでも読んでいただければ幸いだ。

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