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「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」のこと

ウェブサイト(http://umiyama-ametsuchi.com)より、「ABOUT US > PHILOSOPHY > ごあいさつ」に補足する形で、「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」についての文章をまとめてみました。

サイトの中では長すぎて書ききれなかったことを、努めてかざらぬ言葉でしたためたつもりです。
※ホームページの内容と重複すること(仕事内容など)は割愛しておりますので、一度サイトをご覧になってから読まれた方がいいかもしれません。

目次
・なぜ、「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」を始めたのか
・なぜ今、「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」が必要なのか
・数年先、どのようなビジョンをもっているのか

現時点での定点観測的な記録文章でもあります。
よろしければ、ぜひご覧くださいませ。


○なぜ、「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」を始めたのか。

 「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」がなぜ、どのようにして生まれたのか。それを語るにあたって、20代の頃の私個人のテーマを語らずにいることが難しいように思ったので、少し遠回りになりますが、そこからお話させていただけたらと思います。

20代の頃の私のテーマ。

それは、「社会の中で、自分はどういった形で役に立てるか」、その答えを見つけることでした。社会の中での自分のアイデンティティーは何か、私の武器は何なのかを考え続ける20代でした。
衣食住を支えるものを生み出したり、社会を支えるシステムに与したり、健康・治安を守ったり…。世の中にはたくさんのお仕事がありますが、私の場合はそのいずれでもなく、答えを見出だすには我ながら愚直なほど人一倍時間がかかったように思います。

なぜでしょう。
それは、私の専門があまり世の中にはなじみにくい学問だったからです。

私のルーツは“演劇学”です。
演劇学ーーー。聞いたことがありますか?あまりなじみのない学問かと思います。
「演劇」というだけで、「手で直接触れることができない形をもたぬもの」であるがゆえにあやふやのものなのに、さらに“演劇学”とは何なのでしょう?

まずは自分でその答えを見つけなければ先には進めない。そう思いました。本や資料からそのままもらうのでは意味がなく、自分自身に刻む言葉として自ら見出す必要がありました。

そのうち、「演劇学とは何か」を問い続けることと、冒頭の問い(社会の中で私はどのように役立てるか)はいつしか並走し、相対する一卵性の双子のように変化していきました。

ですので一度、自分への問いかけ(の言葉)をととのえ直しました。それが以下の太字です。

芸術表現というジャンルにおいての“演劇”ではなく、演劇という現象を「人が集まる」という極めて単純な性質にまで紐といて、その上で、この「演劇性」というツールを社会の中でどう役立てるか。さらに言えば、役立てるために、どういった内容をアレンジするか。

ここから、今、そしてこの先につながる私の思考が始まったのです。

数年間、東京を拠点として演劇(演出や上演、時には役者など)を続けていましたが、この答えはそう簡単には見つかりませんでした。

その後、都内での上演活動に見切りをつけ、かねてから思い描いていたことを実現させました。
故郷岩手に劇場/アートスペース「ガレージホール」をオープンしたのです。
きっかけはもちろん、数年前に起こった3.11です。

Uターンして以降は、演劇を使って役に立ちたいという想いから(それしかできることがなかったですし…)、ガレージホール主催で演劇フェスティバルを何度も催したり、県内の小中高校などで演劇指導/演劇教育の講師などをつとめていました。学校での取り組み内容は、「中学校合併にともない、コミュニケーション力を育むプログラムをお願いしたい」「地域の宝物を見つけ、こどもたちと台本をつくってほしい」「詩からダンスをつくれないか」など、多岐にわたっていました。
また同時に、岩手宮城の民俗芸能 ―各集落(コミュニティ)にとっての集まりの行事/祭・儀式― のプロジェクトにもディレクターとして数年の間深く関わるようになり、古来、延々と伝わる「演劇性/人の集まりの姿」にも胸を打たれる日々でした。
その他にも企画づくりのファシリテーション/コンセプトメイキングにもいくつか携わらせていただきました。人が集まれば、何かができる。何かが生まれる。そのためには有意義な話し合いは不可欠…!と常々思っていたので、陰ながらで構わないからお手伝いがしたかったのです。

5年以上にわたるこれらのさまざまな活動の中で、私自身たくさんの学びがあり、たくさんの気づきがありました。
本当にありがたいことだったと思います。

社会の中での“演劇性”の武器が何か。
この答えも、自分自身の言葉でようやく手に入れることができました。

“演劇性”の武器。
①(演者と観客の区別に依らず、)不特定多数の方々とともに、学びとアソビを行ったり来たりしながら考えを深め、昇華させることができる最高のツールだということ。
②これはプロセスの話なのですが、「みんなでつくる」という大前提があるために、自分の意見だけでなく、他者の考えにも耳を傾ける必然性があり、集団の中の意志決定のやり方/あり方を学び育てることができる最高のモデルだということ。

「社会の中で、自分はどういった形で役に立てるか」という問いにようやく光が見えたように思いました。
そこで、これらの‟演劇性”の武器を最大限生かすための実行の母体として「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」を2018年秋に立ち上げるに至ったのです。

その後の活動においても、一度とらえたこの光がゆらぐことはなかったのですが、とはいえ、この有効性を役立てるには、さまざまな限界状況があることも見えるようになりました。例えば、学校教育においては「演劇」は芸術・文化・美術といったカテゴリとなります。ですので、進学を第一義とする通念のもとでは「演劇/演劇教育」の優先度は決して高くありません。予算面でもそうですが、いただける時間にも制約がありました。以前に比べれば、コミュニケーションとしての演劇教育やドラマ教育は聞かれるようになりましたが、それでも世間一般的な認知度が低いこともひとつの要因のように思います。

補足)ありがたいことに、これまでお仕事させていただいた学校は先生方のご協力もあり、十分すぎるほどお時間をとっていただけることも多かったので、一様に問題点ばかり挙げるつもりはありません。ですが今思えば、必修カリキュラムとの両立は想像以上に大変だったのではないでしょうか。

○なぜ今、「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」が必要なのか。

そういうわけで、状況だけを見れば、逆風とはいかないまでも光が当たらない活動だったように思います。
それでも、地道に少しずつ活動は続けて参りました。

そのモチベーションはいったい何か。

未来の人たちの役に立ちたいからです。
「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」の活動は、未来の人たちの役に立てると思っているからです。

未来の人の役に立つ。
一見すると響きがいいけれど、少しだけ抽象的かもしれません。
ですが、「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」には明確に「未来の人」が何者であるかが見えています。

一人目。それは、今目の前にいるこどもたちです。0才から10代、ひょっとすると20代のはじめの方の若者もそこにあたると思います。
2020年度より新たな学習指導要領が施行されることは多くの方々に知られていると思いますが、その中でより重点を置かれている言葉があります。
それは、〈“生きる力”を育てる〉です。
従来までの一方向的な講義型の詰め込み教育(記憶型学習)から脱し、相互に学び合う機会を多くもうけることで、こどもたちの心の力をより育むことが大切だ、といった方針です。とりわけ現代は価値観ですらよりいっそう多様化された時代ですから「正解」はひとの数だけ無限にあります。それらの無数の「正解」をこどもたちにいかにして気付かせるか。知ってもらうか。教科書を読むだけでは不十分だと思います。これまでの教育形態では補えないでしょう。だからこそ、“生きる力”ーこれからの時代に不可欠な人間力を育むことが大切だという着眼点は私も大いに賛同しています。

ところが、国の大きな方針転換に現場がどれほどついてこられるか、と蓋をひらいてみると、実際には窮状に伏すといった学校も少なくありません。
私が出入りさせていただいていた学校などを顧みても、先生方は終日とてもお忙しいですし、今度の学習指導要領において文部科学省が推奨している「アクティブラーニング」や「ワークショップ」のコンテンツをつくるにはそれ相応の専門性と創造性が必要だとも思いました。
「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」が〈こと・ばのコンテンツをつくります〉と明言しているのは、こういった実感があったためでもあります。

未来の人の役に立つ。
「未来の人」が何者であるか、でした。

二人目の話をします。それは、私たち「おとな」です。
自分なんてもういい大人だからそれはないよ、なんて言わないでください。
未来の世代のために、今を生きる私たち「おとな」も世界を広く、深く見据える目を身につけたいと願っています。つまり、近い将来、私たちが想像しえないほどに多くの課題や選択肢が次の世代のこどもたちの前に広がっているとき、彼らと同じ目線でそれらを受容し、必要があれば助言し、肩を押してあげられるような上の世代の思考の柔軟性もいっしょに育むことも最良の未来のための鍵なのだと信じています。

こういった理由から、「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」では、こどもだけでなく、大人にとっても新たな学び/アソビの場である知のコンテンツ=アクティブラーニングや体験型ワークショップ、コミュニケーションディスカッションなどといったニーズに誠実に応えていきたい、そう考えています。


○数年先、どのようなビジョンをもっているのか

ここまで、「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」に至るまでの経緯そして現在取り組んでいることの意義と、過去・現在の順に書き連ねて参りましたが、ここではその先の未来についてお話できたらと思います。

「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」は、HUMAN ENGAGEDをコンセプトとした〈ことば〉と〈こと・ば〉のコンテンツをつくります。”
〈こと・ばのコンテンツ〉とは、アクティブラーニング/ワークショップ/ドラマラーニングといった体験コンテンツを指します。

Webサイトにも載せている通り、これが「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」の仕事です。こちらの理念をもとにして、さまざまなアイデアでニーズに応えていきます。
ご依頼が多岐にわたっているので、実際の内容もすべて異なります。ですので一見すると、仕事内容が一貫しておらず、よく言えば多種多様な、斜に構えて見れば煩雑な印象をもたれるかもしれません。

しかしながら、「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」が見つめているものはいたってシンプルです。「人が集まる」という現象そのものに大きな可能性を信じている。その一言に尽きます。だからこそ、その潜在的能力を最大限に生かしたい。そのための最良の選択をいつでも用意しておきたい。この想いを実現するためのスキルが、私たちにとってはワークショップや体験型プロジェクトのコンテンツづくりだというわけです。

私たちにとって、“演劇性“の武器を生かす取り組みは、「人の集まり」そのものについて考えることと同義です。
「集まり」をどのように生かすか。さまざまな草木がのびのびと生育するような豊かな土壌のような「集まり」にするためにはどのようにすればいいのか。逆に言えば、「集まり」はどうすると死んでしまうのか。枯れてしまうのか。
私たちはこれらの思索と実践を “集まりの思考”と名付けています。

集まりの思考
一見すると、体系化させて、あるいは学問として深めるにはあまりに覚束なく心許ないように思われるかもしれません。かく言う私もそう思います。
人と人が無作為に集うのですから、集まりとは常に「予測不可能な生き物」のようなものであり、「実体を掴みそこねるばらばらな集合体」です。その目的や共有されているものもそれぞれなので、一概にすべてを当てはめられる類のものではありません。そのような手ごわい「集まり」を思考するとは…。

ですが、だからこそです。だからこそ、そこにはひとつの知恵として、スキルとしての何かが必要なのではないか。人の集まりについて考えること(集まりの思考)のその道標が、私たちにとっては“演劇性”の武器(上記参照)を生かしきることなのだと思っています。

SNSやインターネット、アプリやAIなど、人の身体を介在させなくてもさまざまなことが実行可能である現代において、わざわざ「人が集まる」ということについて根本から考える必要はないのではないかという声もあるかもしれません。
しかしながら、人が集い何かを0から創造すること・創造したものをよりよい形に進化させること・そのプロセスの中で多くの未来への投資(決定)がされてきたこと。これらが人類誕生以来、どのような形であれ世界中で脈々となされ、継がれてきたということ。人類だけが有するこの「集まる」という文明を考えると、ハイテクノロジーとされる現代においてさえ、決してないがしろになどできないと思いませんか。
特に、私の専門である演劇史/演劇学的観点からみると、コミュニティの政治的・文化的意思決定(のシステム)と“演劇性(祭事なども含む)”は表裏一体、決して切り離すことができない関係でもあります。

たかが「集まり」ですが、されど「集まり」です。

掴めるようで掴みきれず、分散と集合を絶えず繰り返し、さらには不特定多数の人々が定まりきらぬメンバーとして出たり入ったりするという何とも心もとない「集まり」という現象がどうしてこうも気になるようになったのか。
それは、数年先のビジョンにも直結するような出来事が、私の人生に決定的な影響を与えたからです。

3.11の東日本大震災。

私の故郷である東北が3.11で自然災害および原発という人災によって被災したとき以来、その後も何かについて、ある問いかけが私を追いかけてくるのです。

「私たちは、私たちの未来を決定することができている/できるのか?」

これが、私の生涯のモチベーションであり、生涯の道/未知です。
ここで言う“私たち”という“集まり”が、一集団の範囲なのか、集落単位なのか、地域単位なのか、国家なのか、自然をも含めるのか。規模を考え始めればきりがないのですが、だからこそ考え続けたいし、何よりこの問いの答えを知りたいのです。できれば、YESという答えを得たいのです。

まだまだ道半ばではありますが、「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」の活動を通して、「私たちは、私たちの未来を決定することができるのか?」への解答やそのしくみを皆さんと一緒につくること。これが数年先の次のステージになるのだろうという予感だけを忍ばせて。見たい景色があります。

「数年先のビジョン」と題したわりには、本当に触りのみをちらつかせた程度でお恥ずかしい限りなのですが、少しずつできることが増えていくと嬉しいです。

千里の道も一歩から。

まずは、今できることを丁寧に汲み取り進んでいく所存です。


長文・乱文を最後までお読みくださり、どうもありがとうございました。
今後とも「うみやまのあいだ、あめつちのからだ」をよろしくお願い申し上げます。

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