さらっと西洋建築史11〜プロパガンダの表現としてのバロック建築〜
バロックの語源はポルトガル語のBarocco(歪んだ真珠)といわれ、装飾過剰で大仰な建築に対する蔑称でありました。
ルネサンス建築の静的な秩序や均衡を第一としたその姿勢とは対象的となるものでした。
このような建築様式変革は時代的には宗教革命や絶対王政の時期と重なります。
カトリック教会や王政における権威の象徴(プロパガンダ)としての建築のあり方が求められていったのです。
宗教改革、絶対王政に関しては以下に詳しくありましたので興味のある方は、参照ください。
カトリックの権威の象徴 サンピエトロ大聖堂
カトリック教会の権威の象徴としての建築として、教皇パウルス5世はサンピエトロ大聖堂の再建を図ります。
宗教改革により離れていった民衆の感情に直接訴えかける装置としての建築が必要だったのです。
それをなすために、官能的な曲線や装飾に加え、陰影の操作、透視図法的な錯覚や古典的モチーフの適用といった技巧を駆使し、幻想性を演出することがサンピエトロ大聖堂では極端にも図られています。
サンピエトロ大聖堂外観 写真:wikipedia
サンピエトロ大聖堂内観 写真:amaging trip
過度に施された装飾や彫刻は、建築と一体となって民衆の前に現れることになります。建物は集中堂式から民衆が集い、儀式が行われるよう長堂式に変え、さらには前面に楕円形広場を囲む囲む大列柱廊を加える事で、都市的スケールを有するバロック建築として完結しています。
絢爛豪華な装飾は、市民を魅了し、まさに権威の象徴にふさわしかったのかもしれません。
サンピエトロ大聖堂外観 写真:wikipedia
サン・ピエトロ大聖堂の過剰なまでの装飾は、観光客がかかる「スタンダール症候群」という病気を、1979年にフィレンツェの精神科医師ガジエッラ・マゲリーニが指摘した。これは、膨大な芸術作品群をできる限り多く見て回ろうとする強迫観念が、観光を楽しむ余裕を奪い、頭痛などの症状を発するものである。
王権の巨大性を表すモニュメント ヴェルサイユ宮殿
17世紀後半フランスでは、ルイ14世の下、王権の強大さを示すモニュメントとして、さらには栄光の時代の建築と美術工芸の集大成としてヴェルサイユ宮殿が建設されました。
ヴェルサイユ宮殿 写真:wikipedia
宮殿のファサードは400メートルもあり、左右対称の構成としています。
サンピエトロ大聖堂との決定的な違いは、多くの装飾の中にも生活の一部でもあった城館は、抑制の効いた古典主義の建築として洗練されていたところにあります。
ベルサイユ宮殿 鏡の間 写真:wikipedia
ベルサイユ宮殿におけるもう一つの特徴として、ビスタ(見通し)の効果に重点を置いた壮大な配置計画が挙げられます。王の寝室を焦点としてパリに通ずる大道路を中軸に、放射状の2本の通りが走り、多様なビスタが設定されています。民衆を取り入れ、広大な庭園では様々な催し物も行われてきたと言われています。
ここでも、民衆を引き付けるプロパガンダとしての建築が図られていたのです。
配置図 :wikipedia
生活における愉楽と優雅さが追求されたロココ様式
18世紀に入るとより、装飾は生活に根差したものとして昇華されていきます。装飾は権威を示すためのものではなく、そのひとときの愉楽や優雅さを求められた空間として現れていったのです。
ここでは、古典様式による厳格さは薄まり、より自由で優美な曲線と薄肉彫りな装飾が施されていきます。
オテル・ド・スビーズの「夏の間」はそのようなロココ様式のある種の完成された姿であると言われています。
オテル・ド・スービーズ「夏の間」 写真:インテイアのナンたるか
18世紀中頃になると、自由な解釈による装飾過多なバロック、ロココ様式に対する批判と反省があらわとなてきます。
装飾はいわば強欲の結晶であるとも考えられるようになり、より「高貴なる単純さ」を求めた建築様式が以後、広まっていくことになります。