伊志嶺敏子さん vol.03
3.平良団地
宮古島で伊志嶺敏子さんの設計した建築で著名なのが「県営平良(ひらら)団地」だ。本土でさまざまな集合住宅の平面プランを研究していたときの経験と帰郷して沖縄の風土を学びなおした経験が活きている。
住宅供給の時代は「量から質へ」と転換が図られた後で、沖縄でも、鈴木雅夫さんや宇栄原謙さんらによって「南島型」と呼ばれるプランが提案され、県営団地等にて実施されていた。玄関を持たない開放的な沖縄の伝統居住の住まい方を取り入れたプランだ。階段室側から入る南面テラスが玄関の役割を果たし、そこから居間や居室にアプローチする。伊志嶺さんの計画した平良団地も、この南島型プランの特徴を持っているのだが、よりゆとりある計画へと昇華させていた。
敷地外周に沿うように低層住棟を配置することで、敷地中心部には住人同士が互いを感じられるバッファーとなる程よい中庭空間を作っている。共用廊下が張り巡らされていることで、容易に隣の住棟へとアクセスできることから「昇り降りせずに、近所付き合いができる」と住人にも喜ばれたという。さらに住棟と共用廊下を少し離して空中歩廊とすることで、住戸のプライバシーを守りつつ暗くならないようになっている。
住戸平面プランは、さまざまな世代や家族に対応できるよう19プランを作成したという。間取りはさまざまなれど、共通している特徴はアプローチ部分だ。南島型プランと同じく半戸外のエントランスコートが玄関の代わりとなっており、そこからリビングや浴室にアプローチすることができるようになっている。プライベートな住戸とパブリックな共用廊下の間に、半戸外のエントランスコートと住戸に渡る玄関および吹抜け空間が差し挿まれている。
この差し挿んだ空間を伊志嶺さんは「緩衝帯(バッファー)」あるいは「中間領域」と呼んでいる。多くの集合住宅では玄関扉一枚隔てて、住戸と共用廊下が隣り合う。玄関の出入りや換気で開けた窓の隙間から、プライベートな空間が覗き見られることに具合悪く感じる人は多いだろう。平良団地ではパブリックな空間からプライベートな空間へとグラデーションを持たせることが意識されている。沖縄の伝統的住居の屋敷囲いにおいても、玄関戸を持たない構造ながらプライバシーをグラデーションのように保護している。パブリックな外路、ヒンプンやナー(中庭)などのセミ・パブリックな空間、一番座、二番座のある表座はセミ・プライベートな空間で、就寝などに使う裏座がプライベートな空間となっている。
0か1かではない0.3や0.5のような小数点の空間が挿まれることで面白いのは「生活のあふれ出し」があることだ。玄関廻りに植栽や魔除けの貝殻などが飾られたり、エントランスコートに格子板や簾などを設けてさらにプライバシーを調整したりと、各家庭毎に工夫が施されている。住み手にも、自身の好みに合わせた工夫できる余地のあるカスタマイズできる場所として認識されていることがわかる。
「平良団地設計のときのサブテーマに「俺の家」というのがあったんです。私が建替え前の平良団地でリサーチしていたら、「俺たちの写真を撮っただろう」とやんちゃそうな中学生たちに詰め寄られました。「新しい団地を設計するのだけど、どんな団地がいい?」と尋ねてみたんです。すると中学生は「馬場団地みたいなのがいい」と。即答でした。私が馬場団地の設計者だとは知らなかったようです。どこがいいのか尋ねてみたら「だって、<俺の家>ってもんが感じられるだろう?」と答えてくれたんです。これだと思いましたね。」
大量生産時代の団地は、規格化することで生産性を向上させ多くの人々に一定水準の住戸を提供することに成功した。その一方では、整然と建ち並んでいることで場所の特徴が薄いために道に迷う人がでただろうし、自身の居場所としての感覚が得られなかった居住者も多かったのかもしれない。それまでも住棟の壁に動物の絵を描いたり、玄関脇に植栽をするなど工夫することで、居場所づくりが為されていただろう。しかし、プライベートとパブリックが完全に分かれているために、居場所づくりのできる空間の余地が少なかったと考えられる。
田中元子『マイパブリックとグランドレベル』(晶文社)という本がある。「マイパブリック」とは著者の造語で、“自分で作る公共”のこと。公共というと御上から与えられるものだったり、みんなのものだからと触れられないものとして極端な認識をされがちである。そんなどこかよそよそしい公共に対して、「作り手本人がよかれと思うものを、やれる範囲でやる」ための「私設公共」の提案だった。その筆者の実践例として、公園などに小さな屋台を持ち込んで、道行く人々にコーヒーを振舞った話などが綴られている。
さらにマイパブリックの実践の場となるのが「グランドレベル」だ。2階でも10階でもない。プライベートとパブリックが交差する「地上階」こそが、私たちの交流にとって最も大事だという主張だ。
この本を参考にして伊志嶺さんが設計した平良団地や北団地を歩いてみると、共有廊下はただ通行のためだけを目的としない空間で「グランドレベル」そのものではないかもしれないが地上階にいるかのような交流可能性に配慮した計画であることがわかる。また、玄関廻りのセミ・パブリックな空間に表出している植栽などの各々の人々による工夫は各家庭による「マイパブリック」の表明だと言えるだろう。この住人ひとりひとりの暮らしの表出が共に暮らしている共同体を意識させてくれる。
また、建築雑誌の座談会で伊志嶺さんはこのような興味深いことも語っている。
大雑把に概算してみよう。調べてみると2020年の宮古島市の人口が約5万5千人。世帯数が2万8千世帯だという。平均すると1世帯あたり1.96人。こんな小数点の人間は存在しないので端数を切り上げて1世帯あたり2人としようか。顔見知りの限界範囲である70世帯は人数にすると137人~140人ほどということなる。団地だから家族世帯を多めに入居させている可能性を考えても「150人」ほどに収まるのではなかろうか。というのも、この数字はとある法則とも整合性が高い。
文化人類学者であるロビン・ダンバーが提唱している「ダンバー数」という数がある。実は、その数が150人なのだ。さまざまな部族を調査したときの構成人数を数えたときの平均人数が150人ほどだったという経験則に基づいている。この150人を超えたあたりから、私たちは名前と顔を覚えて一致させるのが難しくなる。さらには共同体の構成員同士のコミュニケーションも難しくなり、共同体を分けたりする必要が生じるのだという。さらに私たちの社会的ネットワークは、三の倍数で構成されているとダンバーは説く。
要するに、平良団地も経験則的に共同体を意識できる良い塩梅になるようなまとまりで計画されているということだ。
中庭を巡っていると「本当はここに収穫した農作物を皆で調理できるコミュニティ・キッチンを作りたかったんだけどね」と住棟脇の空地を指差しながら伊志嶺さんが話してくれた。住棟が南面していないというだけでも行政とは議論になったようだから、予算以外にもさまざまな制約から実現しなかった部分があったのだろう。こういう実現しなかった部分には、建築家が目指していた理想形を知る手がかりがあるように感じる。
「私ね。団地が完成したときに行政の人には住民向けの準備説明会の席で私も建物の説明をしますからぜひ呼んでくださいって言ったんですけど、連絡がなかったんですよ。特に北団地の場合は、標準パターンとして和室には押入れも設けるでしょ。でも押入れの使い方がそれぞれにあると思ったので中棚を全部取り外せるようにディテールを考えたわけ。そういう話を言いたかったわけ。他にも、最後にお風呂から上がった人は窓を開けてくださいと。開け方も引違い窓を真ん中に引き寄せる。そしたら脇が開くでしょ。窓脇というのは壁があるから壁沿いに風が吹いていくから乾燥も早くなりますよと伝えたかった」
家電を買えば、パッケージの中には使用説明書がついているだろう。戸建て住宅ならば、竣工後の引渡しの際にも生活するときの建物の使い方について適宜、設計者や施工者から説明がある。いわんや団地においてをや、という話である。そこで暮らす人々のことを考えての発言だ。私も見習いたいなと思った。
沖縄の団地変遷についての概要は、琉球新報の住宅情報誌『週刊かふう』にて写真家・岡本尚文さん連載『沖縄島建築 インサイドストーリー』の「Episode4 移りゆく沖縄の団地」にも寄稿しています。
ご興味の方は、併せて御一読ください。
上記リンク先のかふうの記事補足も付記しておきます。
(以下は、以前Facebookにて挙げた付記です)
沖縄で公営住宅建設が遅れた要因のひとつに米ソの冷戦体制があります。
資本主義を是とするアメリカにおいて、公営住宅は共産主義的なものとみなされ避けられていたのです。実際、ソ連では労働者のための集合住宅が多く建設され、前衛的なモダニズム建築が華ひらいていました。アメリカでも、ミノル・ヤマサキ氏の設計によるプルーイット・アイゴーのような事例もありましたが、スラム化してしまったこともアメリカで団地が避けられた要因です。
代わりにアメリカでは、戸建住宅建設のための個人融資を拡充する政策を優遇しました。戸建住宅建設は自動車や家電、家具などへの購買意欲喚起にもつながるので資本主義の仕組みにも合致していましたし、融資を受けた人々が政治的に保守化することも知られていましたから都合が良かったと考えられています。その結果、レヴィットタウンのような事例も生まれました。ウィリアム・レヴィットは自動車製造業で成功した少品種大量生産モデルのテイラー主義を住宅建設に導入したのです。
ウィリアム・レヴィット曰く
「誰でも自分の家と土地を持てば、共産主義にはならない」
米軍は沖縄においても同様に公営住宅建設よりも戸建住宅建設融資を支援しました。占領地救済のためのガリオア資金によって琉球復興金融基金が創設されています。この長期低利の資金融資制度によって建てられた戸建住宅を当時の沖縄では「復金住宅」と呼んでいました。台風に強いコンクリート家屋化が奨励され、木造家屋に対し金利差がつけられていましたから、今日の沖縄の風景を決定づけた制度でもあります。経済学的な効果も高かったと考えられますが、戦禍による住宅難の早期解消という意味では、より時間を要する結果となったといえるでしょう。
細い路地裏に残る古い住宅群の多くは、建て替えることができません。本土復帰後に適用された建築基準法上の道路に接するという条件を満たせないからです。それゆえ、住人の手により小さな改良が加えられながら今もその姿を留めています。そんなことを考えながら路地裏を歩けば、いまなお残るセメント瓦とコンクリートブロック造の住宅に戦後の復金住宅の名残りを感じることができるかもしれません。
参考文献:
三浦展『<家族>と<幸福>の戦後史』(講談社現代新書)
隈研吾『建築的欲望の終焉』(新曜社)
田上健一『拡張する住宅』(創英社/三省堂書店)
※ヨーロッパはどうなの?という疑問があると思いますが、社会民主主義的な良いとこ取りで、団地を建てつつ余暇を拡充することで消費を刺激したとのこと。日本も主権回復後すぐに団地建設をはじめていますから、米ソほどのスタンスの明確さはないかもしれません。詳しくは参考文献を参照されてください。