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伊志嶺敏子さん vol.06

5.宮古島を離れて本土へ

 伊志嶺さんは国費・自費留学の世代だ。沖縄は米軍統治下にあったため、パスポートを持って本土の大学に「留学」する時代だった。沖縄の人が個別で大学に行って試験を受けるのは大変だったことから設けられた制度で、沖縄で試験を受けて、進路希望等を鑑みて受け入れ先の大学へと振り分ける仕組みだったようだ。

「私の年から住居学科という選択ができたわけ。『婦人公論』の特集で「世間を飾る女性たち」というタイトルだったかな? 専門性を持った女性たちが掲載されていて、その中で建築家という項目を見つけたんです。浜口ミホさんや林雅子さんなどがずらっと並んでいて、共通していたのが住居学科でした。しかも彼女たちは住居学科を出て東大に行ったりなんかしてるわけね。それで興味を持ちました。住居学科っていうのは当時、日本女子大と奈良女子大しかなかったんですよ。それで私が真面目に勉強しなきゃいけないと思いいたったのが受験日の3ヶ月前だったんですよ」と話す。伊志嶺さんはみごとに奈良女子大学の家政学部住居学科に合格し、宮古島を離れることとなった。

「それで奈良に行ったら宮古島と文化的な環境が全く違うでしょ。それにもびっくりしましたね。学校に行って単純に勉強だけをしてる場合じゃないなと思って、天気のいい日は校門の前を素通りして奈良公園の伝統的な国宝級の建造物を見て、それから京都で何か催しものがあると見に行ったりしました。そんな風にして自分自身を作ってきたみたいなところがありますね」

 大学四年次には、卒論のために京都大学の西山夘三研究室に通ったという。「その西山先生の秘書をしていた女性の方で、田中恒子さんという大阪市立大学の住居学科を出た方で後に奈良教育大学の教授になった有名な方が研究室にいたんです。田中さんと奈良女子大から来た私の友達3名も伴って、作家住宅の見学に廻ったことがあるんです」。このときの経験が伊志嶺さんには忘れられないという。

 最初に訪れたのは篠原一男設計の邸宅だった。「そこの若奥さんが「篠原先生にはアポなしで見せてはいけないと言われたけど、皆さん学生さんだからいいわよ」と言ってくれて、そのままの姿を見せてくれたんです。実際に見てみたら雑誌で発表されてる様子と違うわけ。雑誌に発表されてる家っていうのは非常に整然とした空間そのものを写真にしてるでしょ。だけど実際は玄関には子供の小さい履き物が脱ぎ散らかしてあるし、雑誌の写真にはなかったアップライトピアノがピアノカバーをかけられてあるし…。要するに、雑然とした状態で、写真と違う実態があるということが学生ながら印象深かった」。

 その次に清家清設計の邸宅を訪れた。「そこの奥さんのお気に入りはパウダールームだと話してくれました。鏡張りの壁面で、他は黒一色になっていてとても素敵だった。生活の中心が2階になっていて吹き抜けの階段を上った先には、柳の枝に紅白の餅花があったんです。訪れたのがちょうどお正月の頃でした。季節を感じる設えをしていて素敵だったんです」と様子を語ってくれた。

 雑誌で紹介されるような整然とした建築のなかで居住者の生活が始まったとき、建築と生活が協調している様子とどこかで生活者に無理が生じてしまい不調和な状態になっている様子の両方を垣間見る経験だった。「暮らしと建築がぴたりと一致しているということの違いを間の当たりにしたものだから、私が目指すのは清家清スタイルだと思った」と伊志嶺さん自身の建築の方向性を決めた学生時代の逸話を語ってくれた。

「ハウスメーカーが増えて規模が拡大したころでしたから、友人にナショナル住宅に務めていた子が2人いて、私もバイトで誘われました。工場の中にあるから朝の始まる時間が早かった。朝早くから奈良からあの大阪の門真市の駅まで行って、夕方5時まで働きました。いろんな部屋のユニットがあって、お風呂場とか6畳間とか8畳、4畳半とか。リビングとか。そのユニットの組み合わせでひとつのプランを作るわけ。手書きで。それをいくつもいくつも作って。私はわり合い褒められた方だったから「伊志嶺さん卒業したらウチに来ませんか」って言われたんだけどでも、私はこういう単調に組み合わせる仕事は機械がやる時代になると思ってたから、断ったんです。姉が東京住まいだったこともあって、ちょうど東京にも行きたいと思ってました」

 上京した当初の伊志嶺さんはインテリアの設計事務所に勤めた。主に店舗設計を手掛けていたため、自身の方向性とのズレを感じて辞めたという。その後、先輩や知り合いの伝手を頼りGKインダストリアル、構造設計事務所と勤め先を変えている。構造設計事務所は事務所内の傍らに小住宅の設計部を抱えており、そこで実務に携わったという。

「その構造事務所の所長が東京写真大学(※現在の東京工芸大学)の構造の先生に赴任したわけ。そこで手書き図面をサポートする女性が必要だってことで私を推薦してくださって、助手として入りました。(助手になる)前までは何をしているのか自分でも掴めるものがなかったからね。何もできないから。だからなんとかしてもう少し手堅いものを手にしたいと思っていました。6時まではその小さい構造設計事務所に勤めていて、あとは青山にある若手の人たちの事務所に夕方7時頃から12時近くまで仕事して、また朝は正規の事務所に行って、というような感じでした」

 朝も夕もと忙しかった当時をこう語ってくれた。助手になったのは伊志嶺さんのつながりがさらに広がる転機だったようだ。

「助手になった私のすぐ上の上司の人が鈴木成文先生の弟子で、集合住宅のいろんな案を作る作業部隊が必要ということで私もそこに週一回通いました。藤本昌也さんのデビュー作になる六番池団地が完成したすぐの頃でね、そこの調査に行こうということになりました。六番池団地を見た時に私はすっごい衝撃を受けたわけ。要するに平行配列じゃなく中庭型でしょ。それも3階建ての低層タイプ。そこの住み方調査をして学会にも発表しましたよ」

 住宅白書に「量から質へ」と転換する宣言が出るのが1973年。茨城県営水戸六番池団地の竣工年が1976年である。それまでの集合住宅とのあり方の変化を感じながら、大学の研究室では集合住宅のリビングアクセスプランなどをさまざま作成したという。この頃の経験やさまざまな出会いは、後の宮古島での団地設計にも繋がっている。

 1978年に伊志嶺さんは宮古島に帰郷し、一級建築士事務所を設立する。帰郷の理由を伊志嶺さんに尋ねたところ、たくさん海外旅行などしたいと思ってたのだけどなかなかお金が貯まらなかったから家賃の要らない実家のある宮古島に帰郷したのだと笑いながら答えてくれた。

「90年代末にパラサイトシングルという言葉が流行りましたけれど、私、パラサイトの元祖なんですヨ」

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