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【京都府】小野毛人朝臣墓

場所:京都市左京区上高野西明寺山(崇道神社境内)
時代:7世紀末

崇道神社入口
小野毛人墓説明板 (右の写真が墓誌)
神社入口に建つ小野毛人墓石碑

私のnoteのペンネーム「毛人(EMISHI)」として名前を拝借した小野毛人(?~677年)の墓を訪ねてきました。墓は京都市左京区、地図でいえば鬼門(北東)のほうの大原三千院へ行く敦賀街道の途中の崇道神社内にあります。崇道神社というのは、桓武天皇の弟で皇太子であった早良親王が、長岡京造宮使の藤原種継暗殺事件に関わったとして憤死した後発生した、天皇の親族の病死や疫病、自然災害の原因が早良親王の祟りではないかと恐れられて祀られた神社です。800年(延暦19年)には崇道天皇と追諡されましたが、正式な皇位継承を経ていないので、歴代天皇には数えられていません。神社と墓は直接関係はなく、墓のほうが古いのですが、もともとこの地が山城国愛宕郡小野郷と呼ばれる小野氏の故地であったことから、小野毛人はここに埋葬されたと考えられています。

崇道神社 (ここを右に入る)
崇道神社内にある小野神社
小野毛人墓登り口
地面に打ち込まれたコンクリート製の丸太を目印に上る

墓は山の斜面にあって、形状はもとは長さ4m、幅3.3m、高さ1.2mの楕円形で、中には平らな石を組み合わせた石室があったそうです。石室には遺体を入れた木棺が納められ、その脇に墓誌を納めた箱があったと推測されています。江戸時代初期の1613年(慶長18年)に墓泥棒に盗掘された当時、すでに墓は封土が削られて石室を覆う石板が見えていたと思われますが、その石室内から短冊形の鍍金鋳銅製の墓誌が発見されました。墓誌は長さ約59cm、幅6cm、厚さ3mmほどで両面に文字が彫られていて、小野毛人が天武朝に仕えた飛鳥時代の官吏で、朝廷の中で高位の職にあったことが記されています。その墓誌から小野毛人が677年(天武天皇6年)に没したことがわかったのですが、しかし彼の生前にはまだなかった官職名や朝臣姓が記されていることから、これらの名称ができた7世紀末以降、おそらく686年から700年の間に子である小野毛野(けぬ)によって製作され、墓に追納されたものと考えられています。小野毛人の父は遣隋使として有名な小野妹子で、子は遣新羅使など外交官として活躍した小野毛野なのですが、毛人自身は墓誌に記されたこと以外詳細は不明の人物だそうです。

小野毛人朝臣墓 (正面)
小野毛人朝臣墓 (横から)
小野毛人朝臣墓 (後方から)
小野毛人朝臣墓碑

さて、発見され近くの寺に納められていた墓誌は、発見後の1697年には再び墓に埋納されたのですが、1895年の明治になってから盗難の被害に遭うことになったそうです。幸運にも取り戻すことができましたが、この貴重な文化財を盗難から守り保存するために、1914年には墓から取り出されて国宝に指定されました。このように墓誌が発見され、被葬者の名前や墓の築造年代が確実にわかる古代の墓は非常に少なく、全国で、といっても中国地方で見つかった2例以外すべて畿内ですが、国内の古墳約16万基のうちたった16基ほどしかないようです。

崇道神社
崇道神社の展示品 (近くの製瓦窯で焼かれた平安京のための瓦)

墓を訪れるには、崇道神社を目指していきます。Googleマップで見ると叡山電鉄の三宅八幡駅が近いようですが、地下鉄烏丸線の国際会館駅からでも徒歩20分程度の距離です。神社に着いたら石段を上がっていきますが、途中右側奥に小さな社の小野神社があり、手前の溝のところに「小野毛人朝臣之塋」と彫られた石碑があります。塋(えい)の字はここで初めて見ましたが、聖所とか墓域という意味だそうです。その脇の細い山道はちょっと滑りやすいのですが、コンクリート製の円柱を埋めて階段状にしたものがあるので、それを道しるべに10分ほど登ったところに墓があります。現在墓は石で囲われていて、1915年に建てられた大きな墓碑がありますが、石室などは見ることができません。築造当時の墓とは全く様相が変わってしまっているのは残念ですが、現状は墓というより記念碑のように見えます。墓誌のほうは、1961年に国宝に指定されて京都国立博物館所蔵となっています。実物を見たことがないので博物館へも行ってみましたが、残念ながら国宝なので常設展示されておらず、拝見はかないませんでした。何らかの催しがあるときに展示されることがあるようなので、博物館のスケジュールを注視してそのときを待ちたいと思います。


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